本研究は、十八世紀後半以降日本の各地に現れた文人や儒者のうち、豊後に出現した幾人かの人物を取り上げ、三都などの大都市と地方を往還しながら、彼らが都市の内外で求めた住まいとその理想を明らかにすることによって、近世日本の都市の場所的意味を論じようとするものである。その住まいのあり方の多くは、山居や田園居といった中国古人の住まいを理想としていたが、反都市的志向をもつこのような理想が、日本近世の都市的場所においてどのような意味をもちえたかが問われなければならない。 そこで、日田・咸宜園と密接に関わりながらも、壮年以後、大坂、江戸といった都市に自らの居場所を見いだした広瀬旭荘に注目し、日記(『日間瑣事備忘録』)からその位置と規模を特定し、当時の絵図と現状調査とともに旭荘自身の漢詩からその住まいの場所的意味を考察した。その結果、特に天保期大坂や江戸の住まいなど初期の住まいは水辺に近く、詩において中国古人が自然(造化)に遊んだ舟遊を虚構的に想起させるものであり、また人々の不在の水辺において、都市のなかに潜む自然を見いだそうとするものであった。と同時に、反都市的な住まいの理想は、自らが出立した故郷の場所と重なることなどがいくつかの漢詩によって明らかにされた。しかし、弘化期以降の住まいは水辺からも少し離れ、そこにおいて囲い込まれた庭という一小世界に自然を凝視しようとする詩が詠われると同時に、都市へのまなざしも古典には前例のない現実の人々の活動へと注がれていったことが明らかにされた。 このように、天保期および弘化以降の旭荘の大坂の住まいの変遷と、その時詠われた詩により、旭荘の都市へのまなざしの変化をおうことによって、漢学者的色彩の強い知(詩)的虚構性に満ちたまなざしから、次第に現実の雑踏を含む活気に溢れた都市・大坂へのまなざしへの変化が見て取れ、そうした中で、(喪失された)故郷は中国古人の隠逸的な住まいの理想と重なり、故郷を遠くで思いながら、生きそして死んでいく場所としての都市が詠われたことが明らかにされた。
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