本年度は、当初の計画に従い、前年度の作業の成果を承け、友情を公的なものとして理解する古代の友情論、およびその延長上にある18世紀イギリスの哲学者たちによる友情論を手がかりにして、友情がなぜ人間にとって欠くことのできないものであるのかを明らかにする作業に従事した。具体的には、主としてキケロの友情論を中心にして、友情が本質的に公的なものであることの意味を確認した。キケロ、および、キケロが依拠していた友情をめぐる古代の哲学者たちの共通了解に従うなら、友人が本質的に公的なものであるということの意味は、次のように理解されねばならない。すなわち、友人というものは、公共圏において、共同体の構成員全体にかかわる問題について討議し、合意を形成するための合理的なコミュニケーションを成り立たせる相手として姿を現す者を指すのであり、見解や利害の一致は、友人との付き合いの前提ではなく目標であるにすぎないことになる。したがって、友人たちのあいだの友情は、「親密性」とは異なるもの、合意形成を目指す討議への参加の意欲として捉えられるべきものである。 しかしながら、キケロは、友人や友情が公的なものであるのに、友人たちのあいだに生れる「親密性」が公共性を毀損する危険を含んでいること、「友人のため」という動機が公共圏において正当化されるのかという問題を提起している。この問題こそ、友情論の根本問題であり、キケロは、この問題を初めて提起することにより、友情論の歴史の出発点に位置を占めることなった。また、このような点を文献学的に確認することにより、友情が「共通感覚」の概念と不可分のものであることを確認する来年度のテーマを扱う上での視点を手に入れることができたと考えている。
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