本年度は、前年度の作業の成果をうけ、また、当初の計画に沿う形で、近代における感情論の文脈の内部において友情の意味を明らかにした。近代における感情論は、古代のストア派が試みた感情論の復興として17世紀に姿を現した。しかし、17世紀以降の感情論では、ストアの感情論には含まれていない感情が取り上げられている。今年度は、このような感情のうち、友情の問題と密接な関連を持つ「喜悦」と「尊敬」の概念を取り上げた。(1)ストア派の哲学者たちは、喜悦が快楽とは異なる特殊な快楽であることを主張した最初の哲学者たちである。高度な認識が産み出す感情について、アリストテレスはこれを快楽として記述したのに反し、ストア派の哲学者たちは、高度な認識が快楽ではなく喜悦の原因であることを主張する。さらに、17世紀以降には、認識と喜悦との関係がさらに強調される。喜悦論のこのような系譜をたどることにより、喜悦が本質的には、来るべきものの先取りとしての性格を具えた感情として理解されてきたことが明らかになった。(2)喜悦がストア派以降に快楽から分離された感情であったのに対し、尊敬は、それ自体としては、プラトンやアリストテレスにとっても未知のものであったわけではない。しかし、尊敬とは何かという問題が主題的に取り上げられるのは、やはり17世紀になってからのことである。そして、このとき、尊敬は、「自尊心」という、近代に固有の自己に対する態度との関係で取り上げられるようになる。デカルトからスピノザ、ヒュームを経て、カントやベルクソンにいたるまで、自尊心は無視することのできない感情であり、歴史的に見るなら、自尊心が尊敬の一種なのではなく、反対に、尊敬の方が自尊心の派生形態として扱われていたことがわかる。本年度は、上述の喜悦の問題とともに、「自尊心」論の系譜をたどり、尊敬を愛から区別するものが、「自由意志」に対する「危惧」であるということを確認した。
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