本年度は、関西大学中村幸彦文庫所蔵の連歌学書『紅葉草』の成立圏や成立の背景についてより具体的に解明すべく、『紅葉草』中に引用される連歌学説の説者ならびに引用発句・付句の作者の層について、詳細な検討を行った。その結果、『紅葉草』現存本中に「-説也」という体裁で引用される連歌師名は、瀬川昌佐が47回、里村昌琢が43回と群を抜いて多く、宗祇と宗長の説がそれぞれ1回ずつしか引かれていないことに比して、近世連歌師の説は圧倒的な数にのぼっていた。特に頻出する里村南家の説が昌程や昌隠の代までであることなどから、『紅葉草』は、遅くとも寛永末年あたりまでの言説を反映したものと推すことができる。いっぽう、引用例句では、西山宗因が俗名豊一の名で登場することに特に注目した。豊一時代の宗因出座連歌資料は28作品が現存し、そのすべてにあたって『紅葉草』所引の豊一付句の出典を精査したが、現存連歌資料中には同一句を見出すことはできなかった。豊一が宗因号に改まるのは寛永八年三月のことであるが、寛永六年正月に改名する昌程の場合は俗名景益名での例句は皆無である。以上のことから、『紅葉草』の主たる編纂資料に寛永前期の連歌作品が用いられたことは疑いを容れない。 如上の調査作業によって、『紅葉草』原型の成立を寛永年間まで絞り込んだわけだが、その浄書時期は、表紙裏反古の書付によって、元禄八年六月以前であることが判明する。『産衣』の刊行と近接した時期ではあり、近世前期の連歌学書が、複数の段階を経て成立し、分岐し、ふくれあがってゆく様相をここに垣間見ることができると思われる。刊本『産衣』は、従来、ややもすれば近世以降の連歌作者がこぞって依拠した書として認識されがちであったが、その背景には、宗匠や時代の好尚を反映して増補する『紅葉草』のごとき写本が少なからず存在していたと推測されるのである。
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