日露戦争関係の文献を内外の書店から広く購入し、貴重な文献に関してはロンドンのブリティッシュ・ライブラリーで調査を行うことで、多くの知見を得ることが出来た。その成果として四本の論文を発表した。 第一に、日露戦争をとりまく英国の帝国主義について、「帝国主義の文化から文化の帝国主義へ」でおおまかな見取り図を描いた。既に多くの研究が明らかにするように、十九世紀末の英国では、人種・階級・性差のヒエラルキーが弛緩し、再編を余儀なくされていた。日露戦争は、そうした従来の秩序転覆への脅威としてみなされると同時に、武士道論や柔道の流行にみられるような帝国を活性化する酵素として取り込まれたのである。そうした脅威を馴致し、階層秩序の危機を軟着陸させる運動がさまざまな局面でおきたわけだが、その一つにジャポニズムこと日本美術の流行がある。第二の論文「日本美術の西欧への衝撃」では、岡倉天心の英語による講演や執筆活動に注目し、ジャポニズムもまたこうした秩序への取り込みの一つであることを明らかにした。工業主義に対して手工業の擁護と復権がおきた際、その理想とされた対象がヨーロッパの中世と同時に同時代の日本だったのである。工芸作家といういわば矛盾した存在はその産物にほかならない。具体的には七宝作家の並河靖之の作品が英語圏でどのように評価されたかを論じた。一方、岡倉のような日本人が活躍すると同時に、それまでの代弁者ラフカディオ・ハーンは、後景に退くことになった。その際に、ハーンの意図に反して黄禍論の根拠として流用されたことを第三の論文「ラフカディオ・ハーンと黄禍論」で明らかにした。そして英国黄禍論文学の具体例として、第四の論文では「英国衰亡論」に注目した。名のみ知られてほとんど研究されてこなかったこの資料の版の異同を明らかにし、復刻を行った。その際に、この資料が、武士道論の流行のなかで執筆され、ボーイ・スカウト運動と地続きの存在であることを指摘した。また、刊行直後に邦訳されていたことから、その比較を行い、あわせて邦訳も復刻を行った。
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