近世における漁場利用の形態は、大きく分けて内水面漁業と沿岸漁業とに大別され、かつ沿岸漁業は地付漁業と沖漁業とに二分されると考えられる。本研究はこのうち地付漁場における漁業構造を分析するものである。とくに近世における地付漁場の利用形態、およびその特質を明らかにするために、本研究では特定の品目に限定して、その漁獲過程・加工・流通構造を明らかにすることとし、昨年度に引き続き、寒天の原料となる心太(トコロテン)草の生産に関わる史料を収集するとともに、大坂周辺で寒天に加工・販売される局面に関わる史料も収集した。寒天は伏見で食べ残した心太が偶然凍結・融解したことから発見されたと言われ、18世紀後期には中国への輸出品として大坂北部の北摂地域の山間村落で盛んに生産された。やがて生産過剰から文化年間には大坂尼崎又右衛門の一手取締のもと、原料の集荷・販売量の調整について制約を受けるようになるが、そのもとで寒天製造人たちは竃数を株化して固定し、仲間組合を結成することで集団の利益保全を図った。そのため寒天生産地は北摂地域から容易には広がらなかったが、天保年間になると、有栖川宮御用を掲げたり、あるいは紀州藩の寒天国産化計画に組み込まれることによって、丹波の寒天製造人が原料の天草を独自に入手するルートを開拓し、急成長を遂げた。とくに紀州藩は、寒天製造に必要な原藻=心太草を自藩領のみで調達できず、良質な草を求めて東伊豆の村々で心太草集荷権の請負に参入するようになり、各村々で慣行として行われていた集荷権の村請状態を大きく動揺させることになった。浦の請負値段や原藻価格の急騰にはこうした背景があったのである。
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