1927年に成立した南京国民政府にとって、経済建設にどれほどの成功を収めることができるのかは、政権の正当性に関わる重要事であった。本研究では、全国のなかでも「遅れた」地域とされた西北の内陸地区を対象とする経済建設(西北建設)に注目し、その経緯を明らかにした。 当時、西北建設については膨大な数の開発計画が登場した。これらは、真摯な国民統合論・国防建設論であったにせよ、ほとんどは机上の空論の域をでるものではなかった。なぜなら、提案される事業に必要な膨大な資金をどのように調達するかという点についての現実的な考慮を欠いていたからである。 実際の政策の始動にあたっては、アメリカ合衆国からの借款を得た全国経済委員会が果たした役割、特に宋子文の緻密な運営が決定的に重要であった。また、現地の行政担当者である陜西省主席邵力子はこれに協力しつつ、開発計画と生態環境の関係を模索していたのである。 また、もうひとつの課題として、天津の祭礼を事例として、民間信仰に対する国民党の態度と経済政策の関係を考察した。天津における「皇会」という祭りは、古い由緒をもち、伝統芸能を発達させていたが、民国に入ると、これは「迷信」として批判されたため、中断した。1936年には、市政府の許可を得て再開されたが、その理由は、祭りは人々の消費行動を刺激し、経済に有益であるからというものであった。ここには、国民党の経済重規のイデオロギーと人々の地域的な伝統を守ろうとする意識とが、微妙な形で共存していたのである。
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