本研究は、高麗時代の朝鮮半島に元朝治下の中国より朱子学が伝来し普及した政治的・社会的背景の解明を目的とするが、本年度は、基本資料の史料的性格を検討することに重点をおいた。とりわけ、朝鮮への朱子学伝来の嚆矢として知られる安〓(1243〜1306)の事跡を再評価する作業の一環として、その伝記資料『晦軒先生実記』(以下『実記』と略称)の性格を明らかにすべく、書誌学的・歴史学的な調査を行った。 具体的には、日本および韓国の図書館・研究機関等に赴いて『実記』の伝本を調査するとともに、その出版が行われた韓国の全羅道谷城・忠清道論山・慶尚道晋州の祠廟等を実地に訪問して、関係者からの聞き取りと版木の実物調査などを行った。その結果、『実記』の版本が少なくとも8種類を数え、それぞれ内容に異同があること。またそれらが、18世紀半ばから20世紀初めにかけて、安〓の後孫と周辺士族によって複雑な過程をへて繰り返し刊行されてきたことなど、従来知られていなかった事実が明らかになった。そして、こうした基礎的な原典調査の結果、従来『実記』に基づいて語られてきた、安〓による朱子学書の将来という伝承については、信憑性に重大な問題があることが明らかになり(朝鮮中期以降の述作である疑い)、朱子学伝来の契機については同時代史料に立ち返って再検討する必要があること。その際には特に安〓と元朝宮廷の密接な政治的関係(質子(turγaγ)としての中国滞在)に着目する必要があること、などの見通しを得るにいたった。 また以上の調査と並行して、14世紀後半に元刊本を翻刻したとされる高麗刊本『近思録』について、各種の漢籍目録を精査し、中国版の諸伝本と対照することによって、その底本が台湾故宮博物院に蔵される元刊本『近思録』と同版であることを確認した。
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