家族小経営のあり方を考える上で、それが産地間でどのように異なったのかを解明することは、本研究において重要な課題の1つである。そこで、明治中期以降に急速に発達した輸出向け羽二重産地において、家族小経営がどのように展開されたのかを橋野2006で検討した。 1880年代中頃以降、福井では群馬県桐生より羽二重技術が伝授されたことをうけ、その生産が急速に広まった。その担い手は、中小の地主層が機業に転業したものであるといわれる。いわゆる農家の家内工業から始まったが、その規模を拡大し、家族従業者及び雇用者で約7-8人という規模が福井では一般的となっていった。この規模は、全国の絹織物業におけるそれが1-2人であった点と比較すると、福井の大きな特徴の1つであった。 輸出羽二重の生産において、問屋制や家内工業よりも工場制度の展開が主流だったのは、その製品の特性にある。すなわち当時の輸出品に要求された均一性を達成するには、規律の維持や品質の向上が期待される工場制度のもとで生産される必要があった。製織工程の機械化に先立ち、工場制度の重要性が認識されていたのである。実際、福井の主要生産地の1つであった今立郡の工場をみても、1つの工場の中に職工と従弟が存在し、分業と協業に基づいた生産が展開されていた様子がうかがえた。 また、同郡の福田工場の「機業棚落控」によって、工場内の職工の賃金を観察してみると、長期で高賃金・低賃金、短期で低賃金というグループがあったことが分かり、熟練度の異なる職工達(その大部分が女工であった)が、分業と協業に基づいて生産していたであろうことが推測された。さらに、福島県織物協同組合の視察報告から、このような工場において特に現場監督のような存在していなかったことが分かった(報告ではこのことを大変に驚いている)。 おそらくは、工場内においてこのような女工をコーディネートしたのが、「おかみさん」であったと思われる。工場の規模が小さい家内工業でも、同じ役割を果たしたのではないだろうか。この点については、資料になかなか残りにくい。しかしながら、これまでの研究によって、工場内の職工構成が得られたため、このような職工が実際に生産活動をするにあたって、おかみさんが果たさなければならなかった役割が仮説的に分かってきた。それには、工場内の職工配置や製織・準備工程に関する指導といった生産活動に直接かかわる点、ならびに食事や生活に関するサポート等、生産活動にはなかなか見えてこない点もあったと思われる。 工場内の生産活動の詳細とそれをコーディネートしたおかみさんの役割については、次年度の課題として、インタビュー調査をふまえて詳しく検討・考察する予定である。その際、今年度検討した輸出向織物産地の福井と国内向織物産地の群馬・桐生産地との比較を念頭に研究を進め、その成果をまとめるつもりである。
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