本研究課題「近代沖縄における学校受容の二重構造化過程-補と区会運動の新機軸-」における平成18年度の研究は、これまで収集してきた資・史料の分析を中心に行った。 これまで明らかにしてきたように、日本本土の近代化過程は「旧慣尊重政策」によるイエ/ムラの論理の擬制化によって推進されるものであったが、その実体化の過樫には、旧慣(前近代的秩序)を解体しつつ再編することで自らの存在意義を示した近代学校が大きな役割を担うものであった。 それに対し、近代沖縄における近代化政策は「旧慣温存政策」であり、いわば統治体制においては琉球王国時代の旧体制が維持されたまま、近代学校による「近代思想」の徹底化が図られるというものであった。 本土(主に九州)から招聘された教師による学校を中心とした近代化政策は、沖縄の人々に対しいわば「異文化」を浸透させようとするものであり、その過程は決して容易なものではなかった。そのため、各地でみられた児童の不就学に対し、字(シマ)を単位とする風俗改良会が形成されることになる。 官製的性格を強く持つ風俗改良会は、思想善導機能を発揮し、沖縄における近代学校の基本的性格(本土への同化装置)を形成するものとなった一方で、内部において次第に醸造された"シマ感情"により民衆化されるケースも現れ、近接するシマとの競合関係による緊張を生みつつ就学奨励などにおいて大きな役割を果たしていくことともなった(後の学事奨励会)。 こうして、沖縄の近代化過程では、近代化=本土化を促す近代学校という学校観により「日本人化」のための学校という観念(たとえば那覇や伊計)が生まれると同時に、旧来から底流する"シマ"感情を醸成し、「旧慣尊重」によって維持された旧沖縄からの脱却、あるいは「新しいシマ」、「新しい沖縄」への意識を形成するためのツールとして位置づけられるという二重構造化されるものともなったのである(たとえば読谷村)。
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