19世紀末より建設されたヴィットリオ・エマヌエーレ二世記念堂は、20世紀初頭の都市計画的観点から見ると都心の基幹道路を結びつける結節点としての機能を担うようになる。こうした流れの中で記念堂周囲の整備計画では、国家の首都にふさわしい都市機能の実現と歴史的環境に対する配慮が激しく衝突したのである。たとえば、記念堂の正面に位置するヴェネツィア広場からカンピドリオへは、最終的に幹線道路ヴィア・デル・マーレが建設されるわけだが、1909年の「カンピドリオ周辺整備事業」には平面上の対称性と軸線が重視され、既存街区をまったく無視するような道路計画が示された。しかし第一次大戦後になると、既存の歴史的建造物に配慮した計画案が浮上してくる。グスターヴォ・ジョヴァンノーニの提案では、とくにカピトリーノの丘の麓、サンタ・マリア・イン・アラコエリ聖堂の階段下に建っていたサンタ・リータ・ダ・カシャ聖堂および周辺街区の保存が重要である。なぜなら、ここにおける聖堂の保存は、聖堂単体の歴史的価値のみで支持されたのではなく、カンピドリオ広場の空間的価値を保証する周辺環境要素として主張されたからである。新設される道路は記念堂とカンピドリオという個性の強い二つの要素を直に衝突させてしまうだけでなく、記念堂の背景にアラコエリの階段の側面をむき出しにしてしまうデメリットを抱えていた。したがって、ジョヴァンノーニが訴えたサンタ・リータの保存には、建築単体の歴史的価値のみならず、記念堂とカンピドリオが形作る両空間を視覚的に切り離す景観上の緩衝機能が盛り込まれていたのである。
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