本年度は、「日本インターナショナル建築会」(以下「建築会」と略)設立の中心人物であった本野精吾や上野伊三郎のほか、これまで存在が知られていない建築運動団体で1930年代に京都を拠点として活動していた「白路社」と「鉄扉社」、また戦前に大阪で発行されていた建築系雑誌『デザイン』、などについての資料調査を行った。 本野精吾については、「建築会」時代の雑誌や論文などの文献調査を行った。その結果本野の活動や建築理念が、従来考えられていたようにモダニズムを積極的に推進しようとしただけでなく、意匠においては表現主義的な側面を持ち、また理念としては建築においていかに「人間」を主題とするかについて思考していたことが明らかになった。また上野伊三郎については、「建築会」終了後に上野伊三郎と上野リチ夫妻が赴任した高崎の群馬工芸所についての資料調査や、戦後夫妻で設立した「インターナショナル美術学校(現・京都インターアクト美術学校)」での資料調査を行った。その結果「建築会」での理念や活動が生かされる形で、上野のその後の工芸や建築の活動が行われていたことが明らかになった。また「白路社」と「鉄扉社」という建築運動団体について雑誌を中心に文献調査を行った。いずれも平野一男という人物によって主宰されていたこと、メンバーには役所の建築課などに勤める高学歴でない技術者たちがいたこと、京都の大龍堂書店を拠点として活動していたこと、西山夘三や川喜田煉七郎らと交流があり、彼らを経由したバウハウスのデザインの影響が見られたことなどが明らかになった。また、1927年から30年代にかけて大阪で発行されていた雑誌『デザイン』について文献調査を行った。発行者で編集者の江村恒一は、日本建築協会で『建築と社会』の編集に携わっていた人物で、「建築会」の設立時に創生社を設立し「建築会」の機関誌として『デザイン』を発行したこと、しかし1929年以降、江村の編集方針と「建築会」の理念との相違から、「建築会」が『デザイン』を離れ、独自の機関誌『インターナショナル建築』を発行するに至ったこと、その後『デザイン』は「鉄扉社」を発掘するなど、「無名」の技術者の活動を積極的に掲載していたことが明らかになった。
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