7世紀のいわゆる終末期古墳の編年とその年代観の確立にむけて研究を行った。6世紀以来の横穴式石室は、580年代の天王山式に続く590年代を中心とする谷首式・石舞台式の段階で自然石による巨石化のピークとなり、一方、600年代以降、切石の岩屋山式石室が導入される。岩屋山式のなかでは、小谷古墳・文殊院西古墳が高麗尺で、岩屋山古墳では唐尺に転換する。岩屋山古墳の石室は長らく高麗尺と考えられてきたが、この標式古墳の石室が唐尺であることが判明した意味は大きい。 一方の横口式石槨は、シシヨ塚・アカハゲ・ツカマリの平石古墳群の石槨は高麗尺で、40mを越える墳丘規模から考えても薄葬令以前の7世紀前半であろう。また、お亀石・オーコ8号・観音塚上・鉢伏山南峰古墳の石槨が高麗尺で、観音塚・観音塚西・鉢伏山西峰・巨勢323・白壁塚古墳などが唐尺である。唐尺導入の時期は、それと変わりない隋の尺度が7世紀初頭に知られていた可能性があるが、639年・641年に建設の始まる百済大寺・山田寺で使用が確認され(飛鳥寺以来の建築遺構の尺度については要再検討)、632年の遣唐使帰国が契機になりうるだろう。 墳丘に関しては、南朝尺6尺1歩1.5mが薄葬令に見える「尋」にあたるが、塚穴・赤坂天王山36歩、石舞台・叡福寺34歩、植山26歩、帯解黄金塚20歩、など7世紀前半は偶数値の2歩刻みであり、7世紀後半になると、薄葬令の規定外の八角形の王墓で、御廟野31歩、野口王墓23歩、牽牛子塚15歩であり、薄葬令の9・7・5歩(尋)と同じく奇数値となることがわかる。鉢伏山西峰古墳は、墳丘が9歩(尋)、石槨長9尺、飛鳥Ⅱの土器を伴い、大化薄葬令の墳丘・石槨規模規定に合致する典型例となる。
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