本研究は清代の官僚名簿である縉紳全書を対象にしており、今年度は以下の2点に関して研究を実施した。 1、地方官人事システムの規定と実態の差異。縉紳全書は単なる名簿ではなく多くの情報を有しており、その中には「規定上の任官方法」と「実際の任官方法」がある。もし規定通りに全ての人事が行われていたのであれば両者は一致するはずであるが、縉紳全書の記載は両者が一致しない事例が多数存在する。そこで乾隆三十八年(1773)の縉紳全書から、6つの省をピックアップして下級官僚のデータを整理して分析を加えた。特筆すべきは「題(省レベルの地方大官が昇任を請願する)」という任官方法についてである。規定上「題」に当てはまる地方官ポストに対する人事について、実際は「調(省レベルの地方大官による異動)」と「陞(中央人事担当部署による昇任)」によって任官されている官僚が多かった。これは「題」にあてはまるポストがより重要度の高いポストであるため、経験を積んだ官員を異動させる意向があったことのあらわれだと考えられる。このように縉紳全書の記載から規定と実際の人事の差異を看取することができ、これは清朝の地方統治に柔軟性を付与したといえよう。 2、縉紳全書の海外での利用。日本には江戸時代、徳川吉宗の文教政策にともなって縉紳全書が輸入された可能性が高く、幕府は清朝の行政制度を知るために縉紳全書を入手・研究していたと考えられる。明治になると縉紳全書は官僚や地方情況の情報収集先としての役割が高くなり、陸軍省や海軍省によって入手され、また明治政府の関係者が清国に派遣される際に縉紳全書を日本から持参して参考にするなど、諜報活動や現地の情報を得るために利用されていた。さらにアメリカに関しては、初代駐清専員のケレイブ・クッシングが縉紳全書を購入していた可能性が高く、彼は清朝との外交形成のために縉紳全書から情報を得ていたと考えられる。
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