申請者の研究課題は清末中国の近代女子教育の成立過程を明らかにすることである。博士論文をはじめ、これまでは、女子教育の制度化過程における清末中国の中央政府と日本の教育界の間にあったヒトやモノの動きを明らかにした。本研究の課題は、清末中国の地方官民の活動に注目し、日本の教育界が清末中国の地方政府の官民に女子教育の情報を提供したことと、これに対する地方官民の受容に様子を明らかにすることである。 本年度は研究計画の最終年度であり、これまで収集した一部の史料を駆使して、まず地方官僚である湖広総督張之洞の活動に着目し、彼が著作した『勧学篇』(1898年)に勧められている「日本モデル」論に日本からの働きかけがあったこと。そして同時にその「日本モデル」論が多くの地方官僚の共通認識となったことを明らかにした。従来、清末中国の教育改革は日本をモデルとして進められたことが指摘されてきた。また、この「日本モデル」を推薦したのは地方官員であり、中でも影響を与えたのは湖広総督張之洞と両江総督劉坤一であるとされてきた。本研究では、なぜ地方官員、特に湖広総督張之洞が「教育救国」のために「日本モデル」を必要としたのか、そしてその「日本モデル」論が多くの地方官僚の共通認識となり、中央政府の教育改革の指針となったことを明らかにした点が、学術的な意義があると考える。 また、張之洞は中国の近代教育制度「奏定学堂章程」(1904年1月公布)の策定の途中(1903年7月)にメンバーとして加えられ、学制公布後に日本人女性教員を雇って自宅で女学堂(敬節学堂)を開設した人物でもあった。従って、今回の研究成果は次の研究方針をたてることができた。そして、最終年度には東京都立図書館の實藤文庫や実践女子大学図書館での史料調査を行った。
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