研究課題/領域番号 |
16J06579
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研究機関 | 東京外国語大学 |
研究代表者 |
藤井 嘉章 東京外国語大学, 大学院総合国際学研究科, 特別研究員(DC2)
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研究期間 (年度) |
2016-04-22 – 2018-03-31
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キーワード | 本居宣長 / 古典解釈学 / 本歌取 / 『新古今集美濃の家づと』 / 『草庵集玉箒』 / 荻生徂徠 / 俗語翻訳 |
研究実績の概要 |
年度前期は、和歌文学会5月例会での発表「本居宣長の本歌取論―『新古今集美濃の家づと』評釈を通して」において、本居宣長『新古今集美濃の家づと』における本歌取歌として解釈された評釈の検討を通じて、(a)本歌の心を取って新たな趣向を加える、(b)本歌の設定を展開させる、(c)本歌の別の句の意味内容を読み込む、(d)本歌から縁語関係を読み込む、(e)本歌の詞のみを取る、という五種の本歌取解釈における分類法を提案した。この発表の後、松坂市本居宣長記念館を訪問し、宣長手沢本『新古今歌集』書入本の調査を行う機会を得た。 また7月米国コーネル大学で開催された“the Flying University of the Transnational Humanities” にて行った“The Colloquial Translation and its Relation to the Idea of the Community by Ogyu Sorai and Motoori Norinaga in Eighteenth-Century Japan” の発表では、近世日本に出現した口語訳という古典の解釈方法をめぐって、古典言語の身体化のための手段としての翻訳観を持つ荻生徂徠と、翻訳を不可欠として、それを通じた古典世界の把握を目指した本居宣長という対照を試み、その差異が徂徠のコスモポリタン的共同体の構想と宣長の排他的共同体の構想に対応していることを示した。 年度後期には、米国コーネル大学に訪問研究員として所属しながら、『美濃の家づと』で行ったものと同様な本歌取歌の悉皆調査を、宣長初期の和歌注釈書である『草庵集玉箒』において行ったうえで、頓阿が『愚問賢注』で示した本歌の摂取法と宣長の本歌取解釈における一致点、及び相違点を指摘する論考を執筆した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
本研究は本居宣長の(1)本歌取論、(2)てにをは論、(3)俗語翻訳論、以上の三領域の内実を和歌注釈書を通して明らかにすることによって、彼の古典解釈態度、さらにはその思考法を究明しようとするものである。 このうち(1)本歌取論について、彼の主要な和歌注釈書である『美濃の家づと』『草庵集玉箒』の悉皆調査を通して、その内実がほぼ明らかになった。また(2)てにをは論に関しては、上記二書の和歌注釈書に加え、『古今集遠鏡』の俗語翻訳における助詞、助動詞の調査を継続して行っている。(3)俗語翻訳論は、総論的な視点から、宣長の翻訳観を、先行する荻生徂徠の翻訳観と比較することによって、彼の翻訳観と思考法の関連を示した。 以上、三領域にわたって当初の計画に従って、おおむね順調に研究を進めている。
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今後の研究の推進方策 |
(1)本歌取論では、本居宣長の本歌取解釈の全容を把握したとはいえ、その学史的意味や彼の思考法における特質というテーマにまでは未だ論が及んでいない。この領域については今後、本居宣長以外のテクスト、及び本居宣長自身の和歌注釈書以外のテクストとの接合、さらには本歌取以外のテーマとの接合という方面に論を進める必要がある。 (2)てにをは論については、データ収集を完成させた後に、それら助詞、助動詞の取り扱いを本居宣長の和歌解釈の中で具体的に分析する作業へと移行していく。まずは(1)と同様に、和歌注釈書における解釈の全容を明らかにした上で、『古今集遠鏡』における俗語への翻訳、並びに『詞の玉緒』における規定的記述との照合を行うことで、より全面的な本居宣長のてにをは論を提示し得るであろう。それ以降も上記同様、てにをは論の学史的意味と彼の思考法の内に占める意味へと論を展開させる。 (3)俗語翻訳論については、上記二つが各論から研究を始めたのとは反対に、総論的な部分、すなわち本居宣長の思考法との関連について、すでに一定の視座を得ている。今後は、この視座を念頭に置きながら、むしろ各論的な調査へと向かっていく必要がある。具体的には、『古今集遠鏡』において訳出の有無がそのまま和歌解釈と直結する、序詞、枕詞、及び掛詞について調査し、その内実を明らかにする。その上で、各論と総論の接合が有意味に行い得るかの検証を行う。 最終的に、以上(1)本歌取論、(2)てにをは論、(3)俗語翻訳論それぞれの各論と総論に基づいて、本研究の目標である本居宣長の古典解釈に対する態度、及び彼の思考法をより開かれた議論の場において論じることを試みる。
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