研究課題/領域番号 |
16J06888
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研究機関 | 東京大学 |
研究代表者 |
李 太喜 東京大学, 大学院総合文化研究科, 特別研究員(DC2)
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研究期間 (年度) |
2016-04-22 – 2018-03-31
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キーワード | 分析哲学 / 自由意志論 / リバタリニズム / 運論証 |
研究実績の概要 |
平成28年度においては、論文を1本掲載し、研究発表を1回行った。またその研究発表の内容は論文として現在審査中の状況にある。 昨年度の研究においては、選択可能性が自由な行為に必要とされる合理性やコントロールを損なうのであり、自由と選択可能性が両立しないという問題を取り上げた。選択可能性は、私たちが未来において様々に行為する可能性を与えるものとして理解される。しかしそのような行為の選択肢には不合理な行為が含まれてしまうことになる。また、どちらを選択するかを行為の直前まで決められないのであれば、行為者は自らの行為をコントロール出来ていないと論難されることになる。 私はこの問題の背景に、「自由が専ら合理性やコントロールを向上させる」という自由論におけるドグマを見て取り、それを論駁した。選択可能性が存在することは行為者の合理性やコントロールを損うことになるという上で見た反論は、このドグマを前提として成り立っている。しかし私は、ドグマに基づく自由理解は、すなわち自由が常に行為者にとって望ましいものであるという理解は不適切であると論じた。そのことは、このドグマは自由概念の記述的側面から見て適切ではないという点を通じて論じられた。 そして研究を更に、適切な自由理解がいかなるものかへと進めた。私は、自由の一側面たる選択可能性は、自由の他の側面である行為者の合理性やコントロールを弱めるのだと論じた。私たちは選択可能性を持つゆえに、未来に様々に行為を為せる可能性がもたらされる。しかしそのこと同時に、私たちが望み通りの行為を為せない可能性を与えることにもなる。私たちはアクラシア的に行為をしてしまうかもしれない。しかしそのリスクも含めて私たちの選択可能性、および自由は理解されているのである。 今年度はこの議論を踏まえて選択可能性を積極的に説明する理論構築を試みる予定である。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
研究は順調に進んでいっていると言ってよい。研究テーマであるリバタリアニズムの擁護にとって中心となる問題が二つ存在する。一つは選択可能性が私たちの自由概念にとって必要であるかという「必要性の問題」であり、もう一つは選択可能性が実際に存在しているのかという「存在の問題」である。昨年度以前においては、必要性の問題に精力的に取り組んでいた。そこでの研究では、選択可能性が私たちの自由概念にとって必要であることを、従来考えられてきた道徳的責任概念との関係から論じるのではなく、努力などの別の概念を通して論じてきた。この点について論じた論文は、昨年度の5月に雑誌『哲学の探求43号』に掲載された。 また昨年度は存在の問題にも取り組んだ。存在の問題にとって重要なことは、なにより非決定論下における選択可能性によって開かれる行為が、自由な行為とみなすに値するものであることを示すことにある。非決定論が自由な行為を可能にすることが明らかになれば、残された課題は、その非決定論がどのような形で実現されているかについての理論を立てるというものになる。 昨年度は選択可能性が開く行為が自由な行為とみなすに値しないことを示す「運論証」と呼ばれる議論を扱い、その論証の否定を試みた。この研究の成果は日本科学哲学会において発表され、論文の形にしたものが現在『科学哲学』での査読審査を受けている状態にある。 以上から、昨年度はリバタリアニズムの包括的な擁護について重要な「必要性の問題」と「存在の問題」にそれぞれ一定の成果を出すことができたと言える。
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今後の研究の推進方策 |
現在までの研究経過にも書いたように、当初の研究目的を達成するために現在積み残されている課題は、非決定論下において選択可能性がいかに存在しているかについて論じることである。現在、リバタリアニズムにとって有力な立場は三つ存在している。「出来事因果説」、「行為者因果説」、「非因果説」である。今年度はそれぞれの立場を検討し、最終的にリバタリアニズムの包括的な擁護を目指したい。 有力だと思われるのは「行為者因果説」と「非因果説」の二つの立場である。しかし、この両方の立場には現在の自然科学的世界観と調停することができないように思われるという問題がある。この問題の解決のためには、自由意志論の範囲を超えて、反自然主義的な哲学的立場を検討する必要がある。具体的には心の哲学、行為の哲学を含める広い観点から両立場を検討することになる。そのため、今年度はより広範な文献の調査が必要であると思われる。特に、行為の哲学については昨年度から調査を進めてきたが、心の哲学については手薄になっているのが現状である。 更に、それぞれの立場は、私が昨年度拒否した自由論のドグマを前提にしてしまった議論を展開している。よって、私の議論に繋げる形でそれぞれの立場を洗練させるという課題も残されていると言える。 これらの課題を乗り越えることができれば、自由意志論において劣勢に立たされているリバタリアニズムを、従来とは異なる装いのもとで擁護することができることになる。
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