2017年度には、20世紀初頭のハンガリー王国北部において広がりを見せたスロヴァキア国民主義運動における、「国民」と「宗派」の関係の解明に取り組んだ。とくに、1905年にカトリックとルター派の両宗派を包摂する政党として設立されながらも、その後1913年に純粋なカトリック政党へと再編されたスロヴァキア人民党を中心とする展開に焦点を当てた。その結果、さしあたり以下の結論を得た。 スロヴァキア国民主義運動の内部には、20世紀初頭の時点で、ルター派、カトリックおよび世俗主義者という三つの潮流が存在していた。そこで、これら諸潮流間の理念的または感情的な隔たりを克服して、「スロヴァキア国民」の利益という統一の価値基盤の上に互いに提携していくことが、自覚的な取り組みとして目指された。1905年のスロヴァキア人民党結成は、そのひとつの成果であった。そののちに発生したスロヴァキア人民党とカトリック人民党との対立は、当事者たちが主張するような「国民」間の対立でも、また「宗派」間の対立でもなく、「国民」と「宗派」のいずれを中心的な利害主体に据えるか、という問題における立場の違いに起因するものであったと考えられる。 しかし、スロヴァキア国民主義運動においても、宗派の違いという問題を完全に克服することはできなかった。スロヴァキア人民党の結成によって解消されたかに見えたカトリックとルター派ないし世俗主義者とのあいだの隔たりは、1911年に金銭スキャンダルをきっかけとして再び表面化した。この結果、カトリック系国民主義者は、1913年にスロヴァキア人民党を独自のカトリック系国民主義政党として再編することとなった。こうして、宗派を超えた共通の利害を有する「スロヴァキア人の一体性」を追求するという方向性は後退する結果となったことが判明した。
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