研究課題/領域番号 |
16K01624
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研究機関 | 九州大学 |
研究代表者 |
西村 秀樹 九州大学, 人間環境学研究院, 教授 (90180645)
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研究期間 (年度) |
2016-04-01 – 2020-03-31
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キーワード | 同型同調 / 応答同調 / 相打ち / 相ヌケ / エントレインメント / 彼我一体 |
研究実績の概要 |
我と敵との関係形式である「同調」と「競争」が交錯するなかで、二つが統合されたとき、「引き分け」が成立する。「相打ち」は引き分けであり、エントレインメントである。互いの「同型同調」による予期に基づいた「応答同調」が一致したということである。古流剣術においては、「捨て身」の相打ちを覚悟することによって勝ちを得た。潜在的に敵に対してギリギリまで同型同調することで、敵の動きを適確に「読み」、相手を引き込んだ、自分に有利なエントレインメントにしてしまうのである。 もう一つの引き分けは、「相ヌケ」である。相ヌケは、「彼我一体」となり、両者武装解除となるものである。この「彼我一体」の状況もエントレインメントを指している。敵と我とは一心同体であり、両者同じことを思い、両者互いを予期し合っている。互いの動静は一つであり、鏡に向かって影を映しているようである。市川は、同型的な同調と応答的同調が「たえまなく交錯し、入り交い、あるいはまれな瞬間にだが、一致している」(『精神としての身体』)と述べるが、「彼我一体」はこの両同調の一致の瞬間に相当すると考えられる。同型同調によって予期した敵の動き (意) と、応答同調によってなそうとしている我が動き (意)――敵の同型同調によって予期された我が動き (意) でもある――が一致しているのである。 この「彼我一体」から生じた拮抗状態で勝とうとすれば負けてしまい、勝とうとしなければ負けることはない。ここから、二つの方向性が開ける。一つは、あくまでも決着をつけようとするものである。顕在的な応答同調に打って出る。二つは勝負を超越しようとするもの (両者引き分けて拮抗状態を解くというもの) であり、相ヌケに相当するだろう。 こうした「同調」と「競争」との交錯のなかに「引き分け」を見出していくことは、武術だけでなく他の競技文化における「場」の生成に即した視点である。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
「引き分けは兵法である」という言説をあきらかにしていくのが主眼であった。柳生新陰流に典型的に見られる「相手に働かせて勝つ」というような戦い方は、現代剣道のなかにも、「後の先」「先々の先」の重視として受け継がれTおり、大相撲における横綱や大関に求められる「安易に仕掛けない慎重な戦い方」に通じている。「仕掛けるが不利」ゆえに、お互いが仕掛けられずに「引き分け」となる状況が生じてくる。これは「術理」をふまえた兵法であった。 将棋における先手後手同型の「総矢倉」や攻撃を受けきる「風車戦法」などは、勝つことより負けないこと・攻めないことを信条とし、すべての駒を「受け」に使って相手の攻め疲れを誘発する戦略であり、そこでは流れが「千日手」による「引き分け」へと導かれる。囲碁では、「貪り」や「大勝ち」狙いは戒められ、相手との調和を保っていき、結果として僅差で勝つことが理想とされる。「二人の対局者が相互に応答しながら、相手の出方 (着手) に依存してこちらの次の着手が決まる。囲碁ゲームは、相互依存的に自己発展するシステムである」(菅野礼司『半田道玄の囲碁哲学と科学的自然観』)。 「引き分け兵法」は、こうした「勝ちに固執せず、引き分けでもよい」とする消極的なものに限らない。上記のように、引き分けを目指すことによって、より確率高く勝利を得るという積極的な意味を持つ兵法も存在するのである。それは、「競争」を本質とする競技文化に「同調」を取り入れることによってもたらされるものである。こうして、兵法としての「引き分け」のさらなる意味を加えることができたということで、一つの進展を見たと言える。
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今後の研究の推進方策 |
将棋の「後手番」の戦略、「手番を渡す」という戦法は、まさに武術に通じている。将棋の定跡や囲碁の定石は、敵と同調しながら調和を保っていく戦い方である。それらは、局面局面において両者にとって最善とされるパターン化された打ち方・指し方である。それは、お互い了解し合っているパターンであり、それに随えばある局面では互角の結果が生じる。両者彼我一体となって進み両者を含んだ流れを理解していく。相手と自分が反発していない「調和」状態が形成されていくが、どこかでそのパターンから外れて「実力」勝負となる。しかし、いきなり「調和」を崩す手を出すと、「勝手読み」となり、手痛い反撃を食らう。強引に攻めたり、受けを間違えると、調和が崩れどちらかの突破口になる。 連歌は、「前句」に「付句」を加えることによって成立するが、この「前句」と「付句」は互いに独立した意味内容を持ちながらも、意味の連続性を保持している。前句・付句それぞれがなす意味表現には、「個」としての主張 (競争) と互いに対する「同調」が同時的に存在するのである。 蹴鞠では、相手が受け取り易いようにパスする同調性と、「うるわしく蹴り上げて」高度さを競う競争的性が交錯する。歌合は、左右に分かれて歌の優劣を競う競技文化とされているが、単純な「競争」ではなく、「対照の妙、調和の妙を味わう」(徳原茂美『歌合の成立と展開』)「歌合の場を形成する人々の互譲協和の精神」(萩谷朴『平安朝歌合大成十』)、すなわち「同調」の精神に支えられていた。 スポーツにおいても、同調を取り入れることによって相手をよく見ながらじっくり対応することは、重要な意味を持つ。競争と同調が統合されると、引き分けへの途が生じるのである。それは、大相撲の「立ち合い」における「阿吽の呼吸」「合気」が、互いの呼吸を合わせながらもなおかつ互いが自分の呼吸をぶつけ合うことで成立するのと同じである。
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