これまで収集した資・史料を整理する過程で、1946年のクロスロード作戦後、ワシントン大学の生物学者が長期に亘って行ったビキニ環礁における放射性物質追跡調査が、1952年のアメリカ、カナダ、日本の漁業交渉に影響を与えたことが明らかになった。これは海軍の水質調査とは直接関係なく、成果としては派生的である。しかし海軍と生物学者の共同研究の結果が、国内の漁業振興を推進するため、国際政治の枠組みを変更したという点で、軍事組織と社会の相互作用の一面を表していると言える。 そもそも1930年代半ばより、北太平洋上のサケ漁は日本とアメリカの間の懸案事項となっていたが、戦後は帰還兵の雇用創出の観点から、連邦政府は漁業を振興した。ワシントン大学の生物学者は、ビキニ調査をもとに物質代謝のメカニズムを明らかにし、後にサケの養殖技術の開発に成功するのであるが、1950年代初頭には、放射性物質を注入した池で稚魚を養殖し、国産サケの識別に成功していた。 放射能の性質を利用した養殖技術を背景に、アメリカは「母川国主義」を掲げ、日本人漁業者が北太平洋を回遊する「アメリカ産サケ」を捕獲するのを抑制しようとした。1952年4月28日、サンフラシスコ講和条約が発効して日本が独立を回復すると、アメリカとカナダはただちに「北太平洋の公海漁業にかんする国際条約」を日本と調印し(1952年5月9日)、北太平洋上の魚類資源を保存するため、三国は特定水域における特定資源の操業を自発的に抑制することで合意した。以後、アメリカのサケの水揚げ高は増加の一途をたどった。 魚類資源保存のために公海上の操業を抑制するという北太平洋条約の精神は、1982年国連海洋法で「排他的経済水域」として制度化された。人類はながらく海を公共の場として捉え、海洋の自由を享受してきたが、放射能にかんする知見は自国第一主義的な枠組みを誕生させたのであった。
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