他者との関係性を語る観点として、サルトルの「視線」とレヴィナスの「顔」は一見するとよく似た着眼であるように見える。しかしながら、これらは重要な点で異なっている。サルトルの「視線」の論理によっては他者との倫理的な関係性を語ることができないと考えられるからである。そこで、「視線」の論理では語ることのできないものが「顔」の論理によって語られているという解釈をもとに、レヴィナスの難解な倫理思想を読み解くという読解の方針がえられる。この方針にそってレヴィナスの読解を試みた。 この読解が目指しているのは、レヴィナスのいう倫理的なものとは何かという問いかけに回答することである。ただし、この問いかけに対してストレートな回答をえることはおそらく不可能である。少なくとも今回の考察はそこまで達していない。むしろ、サルトルとの対比をとおしてレヴィナスの倫理思想の特色を鮮明に認識し、読解の方向づけを行なうというところまでが今回の考察の範囲である。その結果を以下に要約する。 ①サルトルの「視線」の論理に欠けているものは他者の抵抗という局面である。他者の抵抗とは私が自己の暴力性を自覚し、それを抑制することを学びとるほとんど唯一の契機であると考えられる。②レヴィナスのいう倫理的なものを構成する第一段階は暴力性そのものの自己否定にある。③この段階を踏まえ、第二段階として他者を「迎え入れる」という段階がある。④この段階は私が私の世界を他者に明け渡すという形で遂行されるものである。これは極論すれば私の世界の否定であり、さらにいえば私の存在が私にとって自明であるという信念の否定である。だからこそ、私が何者であるかを知るためにも他者を「迎え入れる」ことが必要なのだ。⑤その結果として「共感」にもとづかない世界が構想されるというのが最後に提案される。
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