すでにここまで3年間の研究によって、西周が、「哲学」(philosophyを日本語に訳すために彼自身によって造語された)に込めたそもそもの意味について、考究を進めてきた。オランダ留学中に行われた、西洋哲学の歴史全体の現代に至るまでの通覧によって、西は科学、とくに近代科学の成功が哲学に与えた決定的なインパクトの意味を正確に把握するに至っており、まさに科学の成功のその意味の上に新たな哲学の創出に成功していた、とくにオーギュスト・コントによる実証哲学をこそ「哲学」と見なして、日本に(東洋に)移入しようとしたのである。こうして、西の「哲学」が意味していたのは、プラトンにさかのぼり、カント、ヘーゲルに至る、広く合理的で形而上学的な伝統哲学ではなく、逆にそれを、近代社会のアナーキーの主因と見なして、方法的かつ理論的に刷新しようとした、新たな実証的な哲学だったのである。西のこの点での一貫した立場を、研究では、西の哲学諸論考を、コント思想を下敷きにして読み解くことで示して行った。 研究の次の展開では、しかし、西の「哲学」がコント実証哲学を単にリライトするものではなく、ある意味で実証哲学の立場を徹底させることで、コントから離れ、独自の内容を持つものとなっていたことを示していった。西周はコント実証哲学の根本構造をなす二法則(「三状態の法則」と「分類の法則」)を踏襲しながら、「分類の法則」に関しては、それがあげる最後の二つ、生物学と社会学について大きな読み替えを行っていたのである。生物学では、コントが退けた「心理学(性理学)」が再導入されている。さらに、社会を全面的に扱う(大文字の)社会学も退けられ、それは社会諸科学に分解されている。そのことで、西の「哲学」はかわらず実証哲学ではありつつ、コントのそれとは別の相貌を有するものであったことが、研究では示されたのである。
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