これまでの研究では、人間の日常的な思考や行動の前提となる経験的世界の秩序についての了解のあり方と、それを覆す変則事例、それに対する感情的反応に焦点を当ててきた。本年度は、そうした秩序についての了解を覆す事例の具体的なケースとして、不正義による危害、とりわけ紛争や不正や支配のもとでの人権侵害の事例に着目し、被害者に対する正義、傷ついた状態からの回復の条件を考察し、このテーマを追求する過程で、「謝罪と赦し」を主題とする一連の発表を行った。そこでは第一に、内戦や革命という歴史的状況のなかでの公共的秩序の(再)確立について考察したホッブズ、ロック、ヒュームの議論と、赦しと約束をつうじた公共性の維持についてのハンナ・アーレントの議論を比較してその接点を探った。明らかになったのは、行為に対する自己の責任の承認と謝罪、それに応じて与えられる赦し、また、公共的な社会的関係の回復と維持を可能にする約束が有効となるのが、人間の次元を超越した権威の保証ではなく、共同の実践を維持しようとする人びとの不断の試みによるということである。第二に検討したのは、「移行期正義」と呼ばれる、独裁的な政治体制からの転換や、武力紛争の終結の後に、過去の暴力や人権侵害にいかに対処するかという問題に即して見るとき、公共性の回復や維持をめざす実践のあり方を、いかに構想すべきかということである。ここでは、不平等で抑圧的な社会的関係のもとで否定されてきた被害者の尊厳を回復し、道徳的・政治的な主体としての承認を与えるあらたな社会的関係の創出が鍵になる。ここでは、公共性を回復し維持する実践が、すでに与えられた本来のあり方を目指すというより、歴史的条件に規定されつつ、現状に照らして可能な変革のあり方の探求とともに遂行されるという洞察が得られ、そうした実践を支える理論の必要性が明らかになった。
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