同時代の中国学術の受容と徳川日本の儒礼実践との関連で、寛政期以降の林家と昌平黌関係者の儒礼を検討することが、本研究の課題である。 最終年度は、研究成果をまとめるため、儀礼の実践とその思想史的な意義をより普遍的な文脈のなかで捉え直そうとした。徳川期につづく明治期の崇祖認識とその変化を分析する一方、他文化圏での宗教儀礼研究の研究動向を把握して、本研究を位置付ける作業を行った。しかし年度末に参加予定のアジア研究学会が開催中止となり、研究成果をめぐる欧米研究者たちとの直接対話は叶わなかった。 研究期間全体を通じて、儒礼のなかでも、とくに祀孔と崇祖との関係や異同、それらと近世期の武家霊廟にみられる人神祭祀との関連から、広義の幕府儒者たちの思想と実践の検討した。第一に、彼らの祀孔の実践を、寛政期の釈奠改革の史料をもとに明代・清代学術の受容と関係づけて分析した。その結果、当時の幕府儒者に慣例踏襲ではない考証学的な再検討を求める志向があり、彼らの学問所釈奠や禁裏御所造営における祭祀儀礼での選択方針にそれが現われていることを確認した。第二に儒礼と近世期の武家霊廟にみられる人神祭祀との関連で、崇祖の墓石・石塔の変遷に注目した。儒礼の影響もうけて宝暦期に供養塔から霊位へと変化するが、徳川後期の祭祀観は、武家社会でのこの儀礼転換の延長上に把握されるべきものであろう。第三に、祀孔と崇祖を含む「祭祀の鬼神」に関して、近世期以降の禁裏儀礼をめぐる儒者たちの認識を彼らの儒礼認識と比較した。同時代には後期水戸学での大嘗祭の社会的位置づけもあるが、幕府儒者たちの儒礼に社会統合を認めることはできず、限定的に機能したと考えられる。本研究をとおして、日本の儒礼を同時代の広い文脈で捉え、「程朱学」を標榜しつつも仏教やヒトガミ信仰の影響のもとで独自な展開を遂げた徳川儒学の祭祀の在りようの一端を明らかにした。
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