「キリスト教学」という学問は、わが国の京都大学ではじめて成立したもので、そこには波多野精一と有賀鐵太郎の格別の尽力があった。この二人は19世紀ドイツの学問的神学から多くを学び、とりわけシュライアマハーとトレルチから多くを取り入れた。ところが、今日のわが国のキリスト教学は迷走気味で、本来のあり方から大きく逸脱していると言わざるをえない現象が多々見られる。筆者はこのような状況に危機感を覚え、シュライアマハー=トレルチ的伝統をもう一度正しく見直すべきであると考え、本研究の計画を立てて実行した。 この研究の一環として、シュライアマハーの『信仰論』の完訳を成し遂げたことは、大きな意義を有している。
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