研究課題/領域番号 |
16K02354
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研究機関 | 栃木県立美術館 |
研究代表者 |
木村 理恵子 栃木県立美術館, 学芸課, 特別研究員 (10370868)
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研究期間 (年度) |
2016-04-01 – 2019-03-31
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キーワード | 美術史 / 舞踊 / 演劇 / 音楽 |
研究実績の概要 |
山田耕筰の音楽以外の芸術との関わりを考察する上で、青年期のベルリン留学は非常に大きな意味をもっていた。それは舞台芸術や美術への関心が育まれる契機になったと考えられるからである。 1910年から1913年にわたるベルリン留学の目的は、ベルリン王立音楽院で作曲を学ぶためであったが、この間にバレエ・リュスのベルリン公演に通い、アンナ・パヴロワのバレエを観劇し、イザドラ・ダンカンの舞踊に触れた。折しも、演出家の小山内薫や、後に舞台美術家としても活躍する斎藤佳三、若き日の伊藤道郎がベルリンに集ったことも大きく影響した。特に斎藤佳三との邂逅は、シュトゥルム画廊への日参とそこで同時代の美術に魅了されて、日本帰国時に多数の版画を持ち帰り、1914年の日比谷美術館での、あの「シトゥルム木版画展覧会」に結実した。 基盤研究の2年目となり、ケルン・ダンス・アーカイヴ(ドイツ)への調査によって、ベルリンのバレエ・リュス公演とアンナ・パヴロワの舞踊公演の様子を多数のスケッチに描いた画家エルンスト・オップラーの全貌に触れる機会を得た。それにより、山田耕筰たちが観劇したであろう舞踊の具体的な内容を、そのスケッチ類から跡付けることが可能になったのは、大きな進展であった。 エルンスト・オップラーはベルリン分離派の画家で、マックス・リーバーマンとともに設立メンバーの一人であった。ダンサーを多く描いた画家としてはドガが有名であるが、オップラーの特徴は、舞台の客席から、またはリハーサルに趣いて、舞踊家の動きの瞬間をその場で画面に残したことにある。特にアンナ・パヴロワとは親しく交遊し、1920年代に入っても、その肖像を描き続けた。 山田耕筰がベルリンで観劇した舞踊が具体的に明らかになったことで、彼を中心とする美術と舞踊の交錯についても考察する一助となった。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
山田耕筰の活動における美術との関わり、青年期の留学時代に培われた美術や舞踊への関心について、資料を踏まえて考察する準備が進んでいる。
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今後の研究の推進方策 |
初年度の研究では、雑誌『詩と音楽』が山田耕筰の美術への関心と舞踊への関心の両者において、重要な位置を与えうるものであったことが鮮明に浮かび上がってきた。そこでは川上澄生など、すでに予測していた美術家との関わりも当然ながら見られるが、それ以外にも北原白秋を介して、山本鼎ら春陽会の画家たちとの関係も十分に考えられることが判明した。今後は、そういった世代の違う美術家との関連も視野に入れるべきと考えている。 2年目の研究では、ベルリン時代の山田耕筰に焦点を当て、舞踊や美術など、音楽以外へも柔軟に関心を開いていく様子を、ドイツ側の資料を参照しながら具体的に探った。とりわけ、ベルリン分離派の画家エルンスト・オップラーのスケッチ類によって、ベルリンでの舞踊体験を具体的に知ることができたことは、研究の進展であった。 今後の研究としては、山田耕筰の、神原泰や東郷青児、そして恩地孝四郎などの比較的若い世代の美術家たち、また山本鼎などの一世代上の美術家たちへの関心を考慮しつつ、同時に、山田耕筰がベルリン留学時代に着目した舞踊や演劇と、シュトゥルム画廊の画家たちを中心に、当時の前衛的な造形表現に対する態度表明をまとめていきたい。 それらを通して、山田耕筰が美術に対してはどのような興味と関心を抱いていたのか、また自身の舞踊や音楽への関心と美術的な興味との関係性はどのようなものだったのかを十分に考察し、最終のまとめとしたい。
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次年度使用額が生じた理由 |
若干の残額が生じたが、次年度の研究費として活用したい。
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