次の三区分による調査と研究をおこなった。第一区分、2K被ばく映像資料から4K被ばく〈映像資料〉の作成。第二区分、限定的な利用許諾を得て、4K被ばく〈映像資料〉から関連画像を含む145事例の〈画像資料〉の切取り。それらを〈視覚資料〉とした。第三区分、研究事業完了後における紙媒体の報告書は必ずしも求められていないが、当該研究の性格に由来し、成果を集約する『資料集』(本文377頁・私家版)の制作。今後も、補訂や追記の継続。 □第一区分 一九四五年八月九日の被ばくからほぼ一ヶ月後、また翌年一月にかけて、旧日本映画社スタッフが長崎原爆(私的な呼称「長崎(浦上)原爆」)の被害を撮影した。それ自体が、貴重な歴史的〈映像資料〉であり、2K映像から4K映像に複写した。□第二区分 切取り〈画像資料〉145事例毎に、現在の長崎市内の地点を撮影した。撮影総数五〇〇〇点余りから、対応する、あるいは対応すると推定する145地点を選択し併記した。また、関連記録や資料発掘に努めた〈文字資料〉。□第三区分 〈映像資料〉、〈画像資料〉、〈文字資料〉。それら資料は、被ばく後の「事実」や「現実」の一端である。予算内で『記録集』を15部制作し、公的施設などに献本した。4K〈映像資料〉は、著作権との関わりから収録しなかった。 □コロナ渦 二〇一九年末から二〇二二年におよぶコロナ渦のため、国立国会図書館などにおける文献調査を十分におこなえなかった。長崎市内の踏査も、同様である。被ばく者(当事者)の直接的な語りは、遠からず、確実に消滅する。これまでの被ばく証言は、文字化されなかったなら、失われた記憶である。例えば、被ばく者の遺体を運んだ動員学徒(当時の男子中高生)の記録を復元することが出来なかった。調査と研究には、そのような不十分さや限界がある。
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