冷戦後の中欧研究におけるR・ムージルのカカーニエン概念の機能と妥当性を、①同時代の作家によるオーストリア論との比較、②『特性のない男』生成過程との関係、③同概念の現在までの受容状況の分析、という3つの観点にもとづき、2016年度から2019年度にわたり研究した。 2019年度は主に③の観点で考察した。セルビア出身の作家M・ドールのエッセイ集『中欧』(1999)は、ムージルに依拠しつつ、冷戦崩壊後の中欧論を展開している。このエッセイと、彼の冷戦中の小説三部作を比較し、ベオグラードとウィーンを「可能性としての風景」として重ね合わせる手法、または両者の区別が重要でないような世界観が、冷戦後のエッセイにいかに反映されているかについて研究に着手した。またこれまでの研究をもとに著書『中央ヨーロッパ―歴史と文学』(春風社、2020年度出版予定)を執筆した。 ドールの世界観は、2018年の発表論文(③の観点)でとりあげたハンガリー出身のモルナール・Fとも共通している。また、2018年の学会発表(②の観点)で明らかにしたとおり、ムージルはチェコ・ブルノ(カカーニエン的地方都市)を舞台とする民族運動を扱いつつ、同時に独裁者を待望するヨーロッパの大衆心理を分析している。2017年の発表論文(①の観点)で明らかにしたとおり、ムージルのカカーニエンをめぐる言説は、同時代のオーストリア論がドイツ性やカトリック性など同国の具体的特性に依拠しているのとは異なり、特性をむしろ解体し、背景にある要素を取り出そうとする批判性を機能として持つと結論づけた。 中欧研究でカカーニエン概念を用いるには、中欧領域を地理的にカバーするかに加え、中欧文化をムージルの「可能性感覚」や「特性のなさ」といった彼の中心概念をふまえ考察可能かを見極める必要がある。この点については2020年からの基盤研究(C)20K00508に引き継がれる。
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