本年度は、研究期間を延長して取り組んできた『漢書』礼楽志訳注の最終的な仕上げを行い、「『漢書』礼楽志訳注稿(文章篇)」として公開した。すでに公刊した「郊祀歌十九章」「安世房中歌十七章」の訳注と合わせ、『漢書』礼楽志全体の訳注を完成したことになる。 「安世房中歌」には、現在残されている範囲では、それ以前の歌謡からの継承関係を見いだすことはできず、一方で漢代の古楽府との直接の関連も見いだしがたい。この孤立性は、「安世房中歌」が、文献に残りにくい歌謡本来の性質をある程度保っていたことを想定させる。一方それより後に作られた「郊祀歌」は、一部の例外を除き、経典であった『詩経』と、経典に近い特別な地位を築きつつあった『楚辞』との表現に強く依拠している。しかし今回訳出した礼楽志の地の文は、漢の礼楽が古の儒教的理想から逸脱してゆくことへの慨嘆で一貫している。それはおそらく、歌辞が権威ある言葉によって粉飾されてゆくのに対し、音楽が皇帝の好みに投じて世俗化・娯楽化してゆくことへの、経典を護持する儒家の立場からの反応であろう。経典の権威の確立と、世俗化・娯楽化への傾斜との二面性は、前年度までに検討してきた様々なジャンルにおける物語の変容を考察する上で、有効な視座を提供するものと考える。 『漢書』の「志」については、つとに京都大学人文科学研究所での会読の成果が、平凡社東洋文庫から公刊されているが、礼楽志は長らく欠けたままであった。今回の研究により、その欠を補うことができ、前漢の思想・音楽・文学に関する研究に資することが期待される。今後、郊祀歌・安世房中歌をも含め、全体をまとまった形で公刊することについても検討していきたい。
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