最終年度の成果は、編著1(日英両語で解題寄稿)、論文2、記事1、口頭発表6(うち英語3)である。口頭発表は国外の3機関と連携し、活字化が予定されている。 第1に、日英の対立を1920年代の風刺画から概観したほか、和辻哲郎の「城」(1935)が、皇居の石垣と丸の内のビルとを象徴的に対比する視線の原型となったことを指摘した。またツィンメルマン事件と連動した日本のメキシコ接近とインカ帝国幻想、北西航路探索の地政学的対抗としてのクラ運河計画をとりあげ、両者が小説に転用された過程を明らかにした。 第2に、神智学が媒介した同床異夢の事例を発掘した。幸田露伴が神智学経由でキャリントンを参照し、ヨガと錬丹術の類似を最初期に指摘していたことが判明した。神智学者カズンズの周辺人物として、久米民十郎の霊媒画やイェイツ、パウンドらとの交流には、夢幻能が交霊会の文脈で受容されていたことが大いに関係していた可能性や、稲・ブリンクリーについて志賀直哉が記す写真がほぼ同定できたほか、川崎肇との縁談が流れ、リーバ・ブラザースのトーマスと結婚後、志賀と再会したのは『キモノ』(1921)が関係するらしいことが判明した。 第3に、英政府密偵のシャストリについて、上海で神智学協会の支部代表になったほか、大亜細亜協会副会長(会長頓宮寛・『大亜雑誌』刊行)に就任した旨が日本の外交文書にあり、同時期に上海を訪問中のタゴールの書簡に登場することも判明した。シャストリは日英の政府に「危険人物」の情報を提供しているため、アジア主義運動を監視するだけでなく、牽制していた可能性も明らかとなった。日本滞在中、シャストリが某国密偵と報告した中尾秀男についても、二葉亭四迷の弟子としてロシアで通訳として活躍し、ツィンメルマン事件でドイツの密偵と報道されて後はトルコへ移り、1934年に田中逸平とメッカ巡礼を果たすなど伝記事項を確定できた。
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