最終年度にあたる平成30年度は、①中央アジア王権のスンナ派イデオロギーと諸政策、②中央アジア王権下のイラン人、③中央アジア・イランの宗派関係という、本研究の中核的な3つの考察課題について、各論の分析の総合をおこなった。19世紀後半、中央アジアのスンナ派王権によるシーア派イラン人に対する聖戦や奴隷化はロシア帝国の保護統治をもって終わり、それまでのイラン王朝との断続的戦争状態も終結した。中央アジア・イラン間の通行の活発化とも相まって、とくに保護国ブハラではシーア派の政治的・社会的地位の向上と権利主張の高まりが顕著にみられ、これはスンナ派本位の社会を動揺させるのみならず、やがて1910年には流血の宗派抗争を引き起こし、ロシア帝国内外に衝撃を与えた。本研究ではこのプロセスの未解明の部分を、これまでほとんど顧みられてこなかった写本・文書史料と公刊史料とを併用することで実証的に跡づけた。そのさい、中央アジア(スンナ派)側、イラン(シーア派)側、およびロシア側の視点の比較をおこない、この宗派問題がそれぞれの主体にとって異なる見え方と意味合いをもっていたこと、およびその3者の政治的支配領域をイラン人が股にかけつつ民族・宗派的紐帯を創り出していたことを示した。これは本研究が独自に提示した知見といえる。また、中央アジアにおける宗派関係は、スンナ派優位の前提をシーア派が基本的に承服する(/させられる)という構造的特徴をもっていたが、現代ウズベキスタンのブハラやサマルカンドにおけるシーア派の現状を実地に観察すると、この構造は現在もある程度の連続性を保持していることがわかる。これは現代の世俗国家における政治と宗教の関係ならびに宗派間関係が歴史的条件によって規定されていることを物語っており、本研究が光を当てたもう一つの重要な側面といえる。以上の成果は、学会発表やそのペーパーなどを通じてこれを公表した。
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