研究課題/領域番号 |
16K03078
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研究機関 | 名古屋大学 |
研究代表者 |
加藤 久美子 名古屋大学, 文学研究科, 教授 (80252203)
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研究期間 (年度) |
2016-04-01 – 2021-03-31
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キーワード | シプソンパンナー / 車里 / 普シ耳 / 雲南 / 清 / 雍正 / 改土帰流 / タイ族 |
研究実績の概要 |
平成28年度は、1729年~1739年ごろまでの時期に西南辺境のタイ族国家であるシプソンパンナーを清朝がどのように認識し扱ったかについて考察した。 清朝はシプソンパンナーのすぐ北の威遠と鎮シ元において、1724年と1726年(雍正2、4年)にそれぞれ改土帰流をおこなった。改土帰流とは、土着の支配者から支配権を奪い、そこに内地にあるのと同様の行政単位を設置して直轄地化し、清朝が派遣した官僚により治めさせることである。次いで1729年(雍正7年)に普シ耳府を設置して、シプソンパンナーのうちメコン河東岸の直轄地化をはかった。だが、この直轄地化は実現されなかった。その主たる要因は、改土帰流しようとして初めて、シプソンパンナーが直轄地化しても意味を持たない地であると判明したことであろう。清朝の雲南統治が目指したのは、単に直轄地を拡大することではなく、漢人など内地からの移民も住める中国式の町を設置し、一方で茶、塩、銅、銀などの産物・資源を入手することだったと考えられる。清朝はムンハムなどシプソンパンナーの中心にある盆地で城市を建設しようとしたが、派遣された官吏や工匠のほとんどがマラリアなどで死亡し、その計画をとりやめたという。移民してもその大多数の命が奪われる伝染病がある場所では、改土帰流して町をつくる意味はない。また、シプソンパンナーで生産される茶は重要な産品だったが、茶の産する高地では盆地のタイ族政権の統制も弱いため、盆地政権を廃さなくても山地民たちに茶を生産させ集荷することができた。結果、シプソンパンナーの中でも標高が比較的高く伝染病の危険が少ない場所のみに中国式の町が築かれた。そのうち普シ耳は茶の集荷地となっていった。また思茅には1735年に現地のタイ族政権を残したまま思茅廳が設置され、思茅廳を通してシプソンパンナーの支配者たちが清朝と連絡をとるという体制が作られたのである。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
平成28年度に予定していた史料の分析や考察は、ほぼ計画どおりにおこなうことができた。しかし、国際会議での発表はおこなわなかった。その理由としては、参加を計画していた国際アジア歴史学者会議の開催通知や開催情報がなかなか得られず、結果的に会議に予定が合わせられなくなったことである。また、当初の計画では、年度内に英語による論文を執筆する予定であったが、それも完成させることはできなかった。主に漢文史料の分析に基づいた内容を英文で執筆するのは初めてであり、英訳のしにくさなどで予想外に時間がかかってしまったからである。
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今後の研究の推進方策 |
まずは、平成28年度の研究成果を論文として発表することを優先させたい。そのあと、続く1740年代~1760年代のビルマの王朝交代と清緬戦争の時期については、シプソンパンナーと清、シプソンパンナーとビルマとの関係に焦点をしぼって、確実な研究成果を出せるよう、研究を推進していきたい。
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次年度使用額が生じた理由 |
次年度使用額が生じた主な理由は、平成28年度には国際会議での発表をおこなわず、そのための旅費を支出しなかったことである。
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次年度使用額の使用計画 |
当初は平成29年度以降3回の国際会議に参加する計画であったが、平成28年度の旅費分をあとにまわすことでこれを4回に増やしたい。国際的に研究成果を発表する効果的な場を逃さないために、適切な会議があればすぐに参加を決められるように備えておきたい。
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