研究課題/領域番号 |
16K03078
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研究機関 | 名古屋大学 |
研究代表者 |
加藤 久美子 名古屋大学, 人文学研究科, 教授 (80252203)
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研究期間 (年度) |
2016-04-01 – 2021-03-31
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キーワード | シプソンパンナー / 車里 / 雲南 / 清 / タイ族 / ビルマ / コンバウン朝 / 乾隆 |
研究実績の概要 |
平成30年度は、前年度までの研究成果とそれをさらに発展させたものを国際ワークショップ1回と国内学会大会2回で発表した。 2018年6月12日にオーストリアのウィーンで開かれた国際ワークショップでは、本研究課題におけるそれまでの歴史学分野の研究成果を、同地域を研究対象とする人類学者と共有することを目的として発表をおこなった。 2018年7月14日の名古屋大学東洋史研究会大会と10月28日の広島史学研究会大会で発表した研究成果の概要は以下のとおりである。 清初までは雲南南部に中国王朝の直接的支配はごく部分的にしか及んでおらず、土着民族有力者には土司、土官の官職が与えられ実質上は彼らによる支配が認められていた。17世紀末になると、土司、土官の職を廃して官僚を派遣し(流官)、清の直轄地として支配する(改土帰流)地が増えていくが、現在の雲南省最南部のタイ族地域、車里(シプソンパンナー)では、1728年からムンハムと攸楽の改土帰流が試みられるものの実現しなかった。タイ族支配者を廃したことでその地のタイ族の多くがラオス方面に逃げたこと、町の建設のため派遣された官吏、工匠のほとんどがマラリアなどで死亡したことが理由と考えられる。清はこの経験から車里を改土帰流が困難な地と認識し、タイ族支配者が存在しない地に普シ耳(プーアル)府を1729年に建て、現地のタイ族支配者と共存する形で思茅庁を1735年に設置する。18世紀半ばになると、ビルマでコンバウン朝が成立し、以前のタウングー朝期と同様にビルマにも朝貢するよう中国土司職を持つタイ族支配者たちに働きかけ、武力も用いられた。これらへの対応を通じて、清朝は、車里やより南のタイ族諸政権への認識を深めていった。 2018年11月以降は、上記の内容のうち18世紀半ば以降の部分を論文として発表するため、さらなる史料の検討をおこなった。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
当初の計画では、平成30年度は1770年代までの検討をおこなう予定であったが、実際に検討したのは1760年代の清緬戦争の時期までであった。この研究の遅れの理由は、主に、平成29年度の段階ですでに遅れが生じていたこと、および、読むべき史料の量が当初の予想より多かったことによる。
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今後の研究の推進方策 |
今後の研究の推進方策としては、まずは1770年代までの史料の読解とそれに基づく研究論文の執筆・発表を優先して進め、終わり次第、1780年代以降の研究をおこなうこととしたい。
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次年度使用額が生じた理由 |
平成28年度には国際学会での発表をおこなわず、そのための旅費を使用しなかったため、その時点で生じた次年度使用額をそのまま繰り越しているのが、次年度使用額が生じた主な理由である。当初は2019年度には海外への旅費は計上していなかったが、この次年度使用額を用いての国際会議や国際ワークショップへの参加、海外での史料収集を検討している。
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