1. 2022年度 雲南南部のタイ族国家シプソンパンナーに対する1770年代の清の対応について考察した。シプソンパンナーの支配者は清の土司(車里宣慰使)に任命されると同時に、ビルマ王朝にも朝貢していた。車里宣慰使の刀維屏は1773年にビルマ側に逃げ1777年に戻って再度清への帰順を願った。乾隆帝は、刀維屏の逃亡を知った時、土司職にあった者が任地を離れたことを非難したが、車里宣慰使自体を廃しようとはしなかった。しかし雲貴総督の彰宝が車里宣慰使を廃し営(緑営軍の地方単位)を置く「改土帰流」を進言すると、皇帝は許可した。その後、刀維屏は宣慰使の職に戻りたいと願ったが、皇帝は車里宣慰使を復活させなかった。だが、士官や兵士がマラリアのため多数死亡し営による統治が維持できなくなると、車里宣慰使を復して刀維屏の弟の刀士宛をその職に就けた。以上から、当時の清は1)改土帰流が望ましいが、問題があれば土司制度を維持してもよいとしていたこと、2)タイ族支配者が土司職に任命された場合、清の境域外へ出ることは許されないと考えていたことが分かる。 2. 研究期間全体 清は西南辺境のタイ族国家に対して1720年代までは改土帰流を進めたが、最南部のシプソンパンナーに至ると、マラリアにより内地からの移住が困難なこと、現地の人々が清の境域外に逃げてしまうことなどにより、改土帰流を断念した。シャン州東部や北タイのタイ族国家については、1750年代まではそこでの争いが清の境域内へ波及するのを防ぐのみであったが、1760年代の清緬戦争期にはタイ族国家の支配者を土司に任じようとした。清はこの時期に、雲南、シャン州東部、北タイのタイ族国家がビルマ王朝との関係を以前から持っていたことを認識した。シプソンパンナーについては、ビルマとの関係が続くことは黙認したが、土司に任命されたタイ族支配者が清の境域外に出ることは問題視した。
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