13世紀末から15世紀末にかけてハプスブルク家によって展開された前方オーストリア政策の対象地域は現在のスイス中央山岳地域からスイス北東部、北部、北西部の一帯であるが、従来の研究視角は、スイス中央山岳地域において13世紀末に同盟を結んだ「原初三邦」を母体に14世紀には周辺諸都市や有力農村を巻き込んで成長していったスイス盟約者団とハプスブルク家との長期にわたる闘争を前提としてきた。確かに14世紀前半から15世紀末のスイスの歴史年譜に刻まれる両者の度重なる軍事衝突は、スイス史を語る上での根幹をなしてきたというべきかもしれないし、盟約者団への対抗政策として前方オーストリア政策を位置づけるに十分な根拠でありえただろう。 しかし本研究では、貴族vs.農民、上からの抑圧的封建支配vs.下からの自由獲得のための闘争、という旧来好まれた図式から離れてスイスの歴史像を構築すべく、これまで揺るがしようのなかった前提にも目を向けて、その実態を明らかにするための検討を重ねてきた。 15世紀後半に関しては、ハプスブルク家が勢力を失ったとされるアールガウ占領以降もなお、ハプスブルク家の故地エルザスの都市エンシスハイムに置かれた宮廷裁判所がスイス北西部の農村地域の紛争解決にもハプスブルク家の司令塔的な役割を保持し続け、例えば上部ライン貴族アンドロー家がその一翼を担ったことなど、前方オーストリア政策が継続的に機能し続けたことを明らかにした。 他方、1300年前後のスイス中央山岳地域についても、従来のような、「原初三邦」の同盟の原因をハプスブルク家との闘争に求めるのではなく、サブロニエが提唱した13世紀における地域の経済構造を視野に入れるなら、別の原因を探るべきであるとの考えに至り、近隣の修道院、のちに盟約者団入りする大都市チューリヒの動向にも注目すべきであることを史料から読み取った。
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