本研究では、国府を中心とした国内統治のあり方について、一郡内における郡衙施設の複数配置、郡衙移転の問題、国府や郡衙・駅家などの官衙遺跡群の形成を中心に検討を行った。ここでは、『出雲国風土記』『常陸国風土記』『上野国交代実録帳』などに記された地方官衙である国府、郡衙、正倉別院、駅家について、文献史学と考古学的成果との学際的研究を通して検討を行った。 その結果、国府を中心とした地方支配については、藤原宮期にあたる7世紀末頃までに全国的に国の骨格である七道駅路の官道とともに郡衙・駅家が整備されたことを明らかにした。郡内各所に正倉や支所といった複数の官衙施設を配置することが各地で行われていることを確認した。一郡内における複数の郡衙施設を配置して統治を行うシステムは、7世紀末頃には成立していた。大宝令施工の8世紀以降ではなく、すでに7世紀末頃には各地で交通の要衝地に官衙遺跡群が形成され、郡内各所に郡衙別院や正倉別院が設置され、国府が中心となり、有機的な関係の下に地方行政が実施されていた点を明らかにした。 日本の古代国家は、中国にならい中央集権的支配の徹底を図った。その中で宮都や地方官衙は舞台装置として機能し、同時に支配の手段としての役割も果たした。律令国家は国郡制を敷き、各国に地方官衙として国府、郡衙を配置し、地方統治にあたった。これまで地方官衙の設置にあたっては、主に郡内における地域支配の観点が重要と理解されてきた。しかし、本研究で明らかにしたように、国府・郡衙の設置は国全体の交通大系とも深く関わるものであった。 最終年度のため、予定通り、研究成果を報告書「古代日本における国郡制形成に関する考古学的研究」(総160頁)として刊行した。
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