日本の城郭の最大の特徴は石垣にある。この石垣は織田信長による天正4年(1576)の安土築城以後、全国的に導入され、波及する。この信長の安土築城以前の戦国時代の築城は大半が土を切り盛りして築かれた土の城であった。しかし、15世紀後半から16世紀前半にかけて、日本列島のなかで信濃、美濃、近江、播磨、備前、筑前、筑後、豊前、豊後にかけて集中して石垣による築城を明らかにすることができた。それらは単純に石を積むだけの石積みではなく、背面に裏込めを充填し、石材も選別したものであることも明らかにできた。こうした技術によって積まれたものを石垣と呼ぶ。 注目されるのはこうした石垣を積む城の近辺には中世以来の巨大な寺社が存在することである。近江では観音正寺、金剛輪寺などで、こうした寺院では石垣によって坊院を形成しており、城郭への石垣導入には在地の寺社の技術が援用されて成立することも明らかにすることができた。石垣の石材については、石材を採集する母岩に列点状に刻み目を入れ、そこに鏨を入れて玄翁で叩いて割り取る矢穴技法も寺社の技術であったが、それを用いて城郭石垣の石材を確保したことも明らかにできた。 一方で地域的に導入されるだけではなく、三好長慶という戦国武将が自らの居城である摂津芥川城と河内飯盛城で石垣を用いており、信長に先駆けて石垣を用いた戦国武将であることも明らかにできた。 こうした戦国時代の石垣は単純に軍事的な施設として構えられたのではなく、城を権威として見せるための装置として取り入れられたものであり、後に信長に引き継がれていくのである。
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