本研究では、古墳時代後期(6世紀)の王権中枢部における埴輪生産・供給体制を今日的な研究水準にもとづいて復元する作業を通じて、当該期に成立・展開するとされる「部民制」の実態を考古学的に追究した。 そもそも当該期の埴輪生産をめぐっては、その様式的内容自体が十分に解明されたとは言い難い状況にあった。この状況を打開すべく、まず突帯製作技法と底部調整技法の再検討にもとづいて、後期の円筒埴輪の成立とその変遷過程を再検討した。その結果、中期から後期への埴輪生産の移行は、従来考えられていた以上に連続的で、技術的な断絶は認められず、その変化の本質は生産量の増大と製作時間の短縮化による製作技術の粗雑化にあることを明確にした。 一方で、そうした後期の埴輪生産体制の出現は、特定の墓域を消費単位とする中期の局所的・集約的な埴輪生産体制の解体と表裏で、消費地たる古墳が本貫地に分散回帰することで流通範囲が拡大し、生産地が拠点化する現象に対応する。結果的に各所への拠点的生産地の設置と固定化が系統差を生み出す契機となり、6世紀の奈良盆地では系統の異なる製品が多元的に流通する。同時に各系統の埴輪は、奈良盆地に隣接する大阪平野、紀ノ川下流域、山城盆地や琵琶湖沿岸にも展開するが、こうした隣接地域への埴輪の系統的な伝播は奈良盆地からの製作者の派遣ではなく、逆に隣接地域からの製作者の動員と帰還を背景としているとものと理解される。 こうした手工業生産における地方からの動員体制こそが文献史学で議論されてきた「部民制」の一端を示しているものと考えられる。ただし、王陵を含む王権中枢部の古墳造営体制が本来的に地方から労働力を動員して実現される性格のものであった蓋然性が高いこと踏まえると、埴輪生産にみる「部民制」的実態はそれを淵源としつつ、古墳時代後期に至って労働力動員体制としてより広域化・制度化された姿を捉えたものと理解した。
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