・前年発表した論文(「原子兵器の日本貯蔵問題」、1955年迄の時期を対象とした)の内容を踏まえ、安保改定交渉中(1958~60年)の核兵器の持ち込み問題に関する日本側アクターの認識と行動を調べた。特に岸信介首相、藤山愛一郎外相、飛鳥田一雄衆議院議員、山田久就外務次官、高橋通敏条約局長の口述記録を検討した。これらは1981年に毎日新聞社の「灰色の領域」取材班が行ったインタビュー記録で、歴史資料として価値があることから、『アジア時報』2018年7・8月号より順次、連載した。 ・現在分かっている日本政府の認識を整理すると以下の通りである。①安保改定交渉中、岸首相と藤山外相はそもそもの事前協議の主題として、核兵器が陸上に配置、貯蔵されるケースを想定していた。②岸と藤山は、問題の「一時立ち寄り」のケース、特に核兵器搭載艦船の寄港や、艦船の通過の問題については、米国と詳しく詰めていなかった。③マッカーサー大使は寄港の話を持ち出しておらず、核兵器の置き場所は極秘で自分たちも知らないと日本側に伝えていた。④高橋条約局長ら外務省幹部も、事前協議の対象となる核兵器については「固定したもの」「土地にむすびついたもの」を想定しており、軍艦が出入りするだけのケースは対象外だった。⑤一方で外務省幹部(高橋、藤崎万里、東郷文彦)は国会審議前に、艦船・航空機の出入りを認めた地位協定第5条と、日米安保条約第6条との間に矛盾が存在することに気づいたと見られる。その後1960年4月19日の国会で地位協定第5条の問題が指摘されると、赤城宗徳防衛庁長官は寄港も事前協議の対象だと答弁した。 ・上記の日本側の認識は、米国側の公文書と一致しない部分があり、日米の記録の違いの背景について今後検討する。1950年代~60年代に日本政府内で行われた核兵器の持ち込み問題に関するフォーミュラの検討内容については、次年度論文で公表する。
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