・安保改定交渉と沖縄返還交渉で争点となった、核兵器の持ち込み(再持ち込み)問題に関する複数のフォーミュラの作成経緯と内容を検討し、活字論文(「戦後の日本は主権を回復したか――『独立の実質化』の問題の視点から」)として公表した。 ・本稿では、首相・外相・外務省幹部等の当該問題に関する認識と判断を取り上げたが、一方で本年度は、外務省以外のアクターについて安保改定を中心に検討した。重要点として以下があげられる。 ①1957年6月の岸信介首相訪米中、石田博英官房長官や安倍晋太郎秘書官は、外務省が米側と準備した日米共同声明案に反対し、安保改定の問題に関する文言の明記を求め、その結果文言が再検討された。②安保改定交渉で当初、防衛庁は事前協議の対象を広く検討しており、加藤陽三事務次官らは、米軍の撤退を事前協議の対象とする事を求めた。 ③核の持ち込み問題について、その後三木武夫がマッカーサー駐日大使に対して事前協議制度の問題点を指摘し、マッカーサーがアイゼンハワー大統領とのチャンネルで検討した結果、1960年1月の岸・アイゼンハワー共同声明の条項(事前協議にかかる事項については米国政府は日本国政府の意思に反して行動する意図のないことを確約した)の実現に至った可能性がある。 ④法制局は、新日米安保条約に関する外務省との協議のなかで、核搭載艦艇の寄港も事前協議の対象とする立場を伝えた。さらに米国側に確認を取っておく必要性を指摘した。⑤1960年4月19日のいわゆる「赤城答弁」は、法制局の見解を踏まえた上でのものだった可能性がある。 ・上記から、核持ち込み問題をめぐっては、外務省・防衛庁・法制局との間で認識の異なる点があり、政府内でも完全に詰められない問題が存在していたと考えられる。核持ち込みの問題をめぐっては、法と政治の領域にまたがる込み入った状況が存在しており、次年度も検討作業を進めたいと考えている。
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