研究課題/領域番号 |
16K03508
|
研究機関 | 宇都宮大学 |
研究代表者 |
松村 史紀 宇都宮大学, 国際学部, 准教授 (80409573)
|
研究期間 (年度) |
2016-04-01 – 2019-03-31
|
キーワード | 東アジア国際政治史 / 日中ソ関係 / 中ソ同盟 / サンフランシスコ講和会議 / 対日講和 / 全面講和 / 単独講和 |
研究実績の概要 |
【目的】本年度は、中ソ同盟から戦後日本外交の出発点である「単独講和」の史的過程を分析するのに、その第一局面(中ソ両政府レベルの対日政策1949~52年)に焦点をあてる。 【内容】中ソ両政府レベルの対日政策(1949~52年)を四局面に分け、以下の諸点を明らかにした。第一に終戦後連合国による敗戦国(日独含む)の占領、講和準備の経緯を通して、ソ連の対日政策は対独政策と比べ守勢であった。第二に中華人民共和国成立から中ソ同盟成立までに中ソ両者は二重路線の対日政策を確立した。「非公式」な党際関係では北京を司令塔にして強硬な対米闘争を進め、「公式」な政府間関係では連合国間の「現状維持」に配慮し、旧敵国日本を主要敵に据え「全面講和」の道を設定した。第三にサンフランシスコ講和会議までの中ソ両者による対日「全面講和」戦略はその二重路線を踏襲するものであった。特に政府レベルの外交戦略では北京ではなくモスクワが主導したが、対独講和問題に比べると一貫して守勢に立ち、英米に対案を提示するのも積極性に欠けた。朝鮮戦争の戦局がその背景にあった。第四はサンフランシスコ会議以後の政策である。対日関係の打開において中ソ間に溝が生まれた。また対日講和で主導権を英米に握られたのとは対照的に、スターリンは対独講和で主導権を奪い返そうとした(1952年3月「スターリン・ノート」)。 【意義】従来の研究では政府の「公式」レベルと党際関係の「非公式」レベルが十分に区別されず、また対日講和問題を朝鮮戦争、対独問題という広い視野から分析することも不十分であった。本研究はその点をカバーし、体系的な研究を提供するものである。 【研究活動の内容】①グローバル・ガバナンス学会や研究会での研究報告。②上海市で開催された「第五期中国当代史研究ワークショップ」に論文を提出し、研究報告した。
|
現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
研究計画の大部分は予定通り進展したが、以下の理由によって、一部遅れているところがある。 (1)当初、対日講和問題だけに焦点を当てる予定であったが、同時代に展開された対独講和過程も重要だということに気付き、そちらの史料収集、解読にやや時間を割いたこと。 (2)当初、今年度には予定していなかった中国語論文の執筆作業が重なり、当初の予定よりも多くの時間、労力をそちらに割かねばならなくなったこと。
|
今後の研究の推進方策 |
【目的】東側世界、とくに中ソ同盟から戦後日本外交の出発点である「単独講和」の史的過程を分析するのに、その第二局面(中ソ両共産党の対日共政策1949~52年)を分析することを目的とする。 【内容】本年度の研究(政府レベル)と組み合せながら、おもに中ソ両共産党による日本共産党(日共)に対する政策、特に日共の革命路線が武装闘争化する経緯を明らかにする。日共の革命路線選択をめぐっては中国共産党[中共]だけでなく、モスクワも関与したという構図を示す。特に、三つの局面に分けて、以下のような経緯を論じる。第一に1950年前後、モスクワ主導のもと、中共が追随して日共の平和路線が批判された。第二に1950~51年、日共の北京亡命指導部が中共、モスクワとの相談を経て政治綱領を武装闘争路線にする。第三に1952年、日共の武装闘争路線が失敗に到る。 【方法】本年度の利用資料に加えて、以下の資料を利用・分析する予定である。旧ソ連関連のものは雑誌〔Исторический архив歴史史料、Проблемы дальнего востока極東問題、Нoвaя и нoвeйшaя иcтopия現代史〕に掲載された史料など、中共関連のものは毛沢東・周恩来の関連資料〔年譜、文稿、伝記〕、『劉少奇年譜』下巻、『建国以来劉少奇文稿』1~6巻、『王稼祥年譜』、近年公刊された『劉少奇伝』、『中共中央文件選集』1~17冊など、日共関連のものは新聞『アカハタ』、雑誌『前衛』、資料集『日本共産党50年問題資料集』『日本共産党の50年問題について』『日本共産党の70年』等。
|