日露両国が激戦を行った日露戦争の後、両国の国内事情や国際関係の激変の下で、どのようにして日露関係が対立から和解、協調に向かったかについて、当事国の日露両国の外交や関係国のイギリス、アメリカなどとの国際関係、ロシアのマスメディアによる相互理解の深化などについての観点から研究を深めるために、原資料をさらに収集し、それを分析、検討しながら、総合的に考察した。 日本政府は日露戦争中に日英同盟を改訂すると同時に、戦後は韓国の併合への動きを加速させる一方、軍部が南満州での支配を強化し、満鉄は南満州で積極的な経営を開始していた。ロシアのイズヴォルスキー外相は、こうした日本の満州に於ける外交的、軍事的、経済的攻勢に対して大きな不安と脅威の認識を示し、ロシアは強い懸念を抱いていることを日本の同盟国のイギリス側に伝えていた。 イギリスの原資料を分析、検討することによって、イズヴォルスキー外相が日本の戦後の攻勢に非常に深い憂慮をイギリス政府に示していたことが判明した。当時、イギリスはヨーロッパに於けるドイツの攻勢に対処する政策を念頭に置き、ロシアに接近するために英露協商の締結を希望していたが、イズヴォルスキーは英露協商が成立するためには、日本との関係を良好にし、満州や蒙古に於ける勢力範囲を確定するために日露協商が成立することなしには困難であることをイギリスに率直に伝えていた。また、このようなイズヴォルスキーの分析は、ロシア側の原資料によっても裏付けられ、ロシア側では、日露協商を重視し、単なる協商の名称ではなく、一般的政治協定と位置付け、バフメーテフ駐日大使も日本の攻勢に強い懸念を示す一方、日本の新聞にロシアとの協調を唱える論調があることも伝えていた。 ロシアのマスメディアにおいても、特派員の報告などによって日本の情勢などが伝えられ、ロシア人の日本や日本文化への理解が進み、日露両国の接近に貢献した。
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