ヴェルサイユ体制で厳しい禁止・制限下に置かれたドイツ航空機産業がどのようにして生存し、発展したかをフーゴー・ユンカースと彼の会社の航空機開発・航空業への参入・航空路開拓さらに、中国、日本、アメリカ市場開拓に関して実証的に解明できた。 もちろんその世界的市場開拓は、全金属製航空機の開発で最先端を行ったユンカース社の総力を挙げた営業努力によって進められたものであった。しかも、中国、日本、アメリカにしても、いまだ民間航空機の受け入れ態勢が全く未成熟ないし欠如しており、航空業の黎明期における諸制約・諸障害に直面して、それとの格闘の中で実現していったものであった。 しかし、フーゴー・ユンカースは戦前の最初の特許において、はやくも輸送手段としての飛行機を構想し、戦時中もその航空機による交通革命の展望をもっていた。終戦と同時に旅客・貨物輸送機の開発にまい進した。11月革命・休戦による軍需の突然の必然的途絶によって、戦時中に拡大した生産設備・人員の処理に苦闘しながらも、平和の内外条件のポジティヴな事情を活用すべく、全金属製旅客機F!3を開発したのであった。そしてそれは世界から注目され、世界各国からデッサウ本社工場に視察がつぎつぎとやってきた。 この航空機需要の世界的動向を体感しつつ、安全・高速・長距離・低廉などの諸要件を満たす航空機開発にまい進したのであった。23年から24年までは、なお、フランスを中心とする協商国の対独不振は強かったが、ようやく25年から26年にかけ、国際的緊張緩和の条件が成熟し、民需用の大型航空機開発も可能になった。そうした大型化のワイマール期・ヴェルサイユ体制下における最終段階G38であった。 その過程で大西洋横断飛行にもチャレンジし、世界初の東から西への横断に成功した。そうした成功の蓄積が、厳しい世界市場の開拓において重要な宣伝の武器となった。
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