最終年度の課題は、敗戦直後、旧植民地からの引揚者等が、北海道の移住地にどのような地域社会を形成し、子どもたちのための学校を如何にして設置したのか、その実態を分析することである。戦後の北海道は引揚者の受入先として期待され、1951年には道内人口の約11%を引揚者が占めた。本年度においては、樺太からの引揚者が移住し半農半漁の産業構造をとった枝幸郡枝幸町山臼地域、国後島からの引揚者が移住し漁業を生業とした奥尻町湯浜神威脇地域、そして満洲国からの引揚者が移住し酪農を生業とした標茶町上多和地域を分析対象地域とした。 各地域は、産業基盤や生活環境の整備がなされておらず、人びとは経済的に厳しい環境のなかで、開墾事業のみならず地域のインフラ整備から始めなければならなかった。人びとは農地の開墾、漁港や道路の整備を行いながら、学校も設置していった。学校は、子どもたちを、将来、そして未来へと繋いでいく重要な存在だったため、その設置については、むしろ他の事業よりも優先的に取り組まれた。また学校は子どもたちだけのものではなく、おとな達にとってもお互いの共同性を培い、その共同性を確認する場でもあった。また運動会は、学校の行事のみならず地域の行事でもあり、人びとが集まりお互いを癒やしながら共に生きていくことを確認する場でもあった。 1920年から1940年代までの北海道教育の特徴を、地域の実態から捉えると次のようにまとめることができる。経済不況下の移住民数の増加期と戦時下の増産態勢期、そして引揚者による戦後開拓期において、農業(および漁業)地域と工業および炭鉱業地域を比較すると、そこには教育条件に大きな格差があり、工業、炭鉱業地域に比べて農業(漁業)地域の学校の教育環境は劣悪な状況にあった。地域産業の構造を背景として、いわば教育条件の階層的格差ともいうべき実態があったのである。
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