本研究は、戦後まもない時期の「地方教育研究所」の設置構想や設置勧奨通達、国立教育研究所の前身である「国立教育研修所」の肝いりで結成された「全国教育研究所連盟」などの動向についてその概要をまとめた拙著『戦後教育改革期における現職研修の成立過程」(学術出版会、2013)が、1940年代後半から1950年前後の分析にとどまっていたことを踏まえ、1950年代以降の自治体立教育研究所がどのように設置されていったのか、そしてそれがどのような実態にあったのかを解明することを目的とするものである。 研究の結果、教育研究所の設置は、強制されたものではなく「勧奨」によるものであり、結果的に、各自治体の行政や教育の歴史、文化、風土等により、実に多様な受け止め方がされ、設置の時期、設置形態、性格等に多様性が見られることが明らかになった。教育研究所設置に少なからず影響したと考えられる城戸幡太郎の構想に近い形で「自主」、「独立」、「専門」を志向した研究所も見られるが、戦前からの教育会の影響が強かった地域は、概して自治体立の教育研究所の設置は遅かった。また、1950年前後までの時期で、教育会の他、軍政部や教員組合などが影響を与えた例がある。教育委員会法が設置を求めた調査課との関係で研究所の性格規定が影響を受けた例もある。さらに、文部省が設置を勧奨した1947年の時点では、研究所は大学に設置し、自治体にはその支援を求めることを原則としたが、実際は、別々に設置された例が多く、大学の研究所はやがて形式化する一方で、自治体立の研究所は、現職教育を主たる目的とする「研修所」へと発展していく。その背景には、1950年代後半から1960年代前半にかけて統制、画一化を狙ってすすめられた教育政策があったと考えられる。
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