沖縄は、戦後27年間、米国の直接占領下におかれ、日本本土の憲法・教育基本法は適用されなかった。当時の沖縄の教育財政は脆弱であり、義務教育諸学校の整備もままならなかった。一方で、就学前の保育・教育環境は義務教育諸学校と比しても劣悪であった。那覇等の都市部を除くと、公私立園の整備もなかなか進展しなかった。地域では、幼少の子どもの保育問題が切実であったため、集落の公民館は、地域の子育ての教育組織として保育機能を担わざるを得なかった。字公民館幼稚園(以下、「字幼稚園」と略)の成立である。これは、戦前の農繁期託児所の経験が生かされたものともいえるものであり、字幼稚園の保母の多くは、無資格の女性が区長(公民館)から依頼されて着任したりした。その字幼稚園は、沖縄本島のみではなく、宮古・八重諸島まで広がり、1960年代は、約300園が存在し、沖縄の子どもの保育・教育保障を地域の字公民館が自治的に担っていたのである。 字幼稚園の多くは、字公民館の一室を借りる形で園活動を行い、園長は、区長若しくは近郊の小学校の校長が兼ねていた。保母の手当や園活動に伴う経費は、区民の負担であったり、字公民館からの補助を得ていた。地域の子育て機能を有する字幼稚園は、字立(区立)の教育機関として機能し、地域の自治により運営されていたのである。地域に根差した字幼稚園は、1960年代後半には、沖縄の日本復帰を前にして、小学校附属の公立幼稚園として“公立化”され、“格上げ”していくのである。 こうして、沖縄の戦後の就学前の保育・教育は、地域の字公民館を拠点とする子育て組織の中で広く行われ、そこでは、「地域の子どもは地域が育てる」という地域実践活動が行われていた。しかも、名護町では、復帰後においても、3~4歳児の子どもを対象した「幼児園」が新たに成立し、町の合同運動会等の諸行事が個々の園を超えて展開していたのである。
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