健康上の理由で1年研究期間を延長申請した最後の1年は,次の2つの課題を実践した。 1)カリブ海域のイスパニューラ島のハイチとドミニカ共和国の製糖・サトウキビ栽培史について現地訪問して知見を深めた。ハイチは1492年コロンブスの第一次航海で発見された島で,以後スペインが植民を開始した。しかし関心は比較的平坦な東半分に集中したが,金銀の採掘の魅力をもつメキシコやキューバに統治の中心が移り,その後国力の衰えもあってサトウキビ栽培や製糖業は粗放的かつ非効率な状態にとどまった。一方,西半分の北西にあるトルチュ島はエスパニョーラ島とキューバとの間のウィンドワード海峡を抑えることが位置にあるため海賊(バッカニア)の拠点となり,その後フランス人が優勢となり,1697年のライスワイク条約で西半分をフランスが領有し,植民地名をサント・ドマングとした。山がちの地形であるが,ここに西アフリカからの黒人奴隷を移入して,コーヒーやサトウキビプランテーションを経営した。サトウキビは北部海岸のカパイシェンからアルティボニート平野,中央平野が中心で,フランス植民地のなかで最も栄えたもののひとつとなった。18世紀末には4万人の白人に対してアフリカからの黒人奴隷が50万人を占めた。ムラートと奴隷身分から解放された自由黒人が中心となって,1804年に世界初の黒人帝国を築いた。その後は政情不安でサトウキビ栽培は停滞している。 2)日本国内における薩摩藩の内国植民地的性格をもつ奄美群島,とりわけその主島である奄美大島,隆起石灰岩の低平な地形が卓越して最も集約的なサトウキビ栽培と在来製糖が行われた喜界島,より琉球に近い沖永良部島を踏査し,中国福建方面からの栽培技術の普及在地化を分析し,カリブ地域と比較した。さらに近代の八丈島移民を嚆矢として,製糖会社経営の大規模サトウキビ栽培・製糖の実情を大東諸島の南大東村でも調査した。
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