旧東ドイツの司法権のあり方を中心に研究を進めた。共産党/社会主義統一党は、司法権について具体的な構想を有していなかったが、ただ終戦前から、単なる非ナチ化を超えて司法部の人事を根本的に刷新することを目指し、法曹養成方式を根本的に変更し、民主集中制、権力の一元制の原則に基づき、政治の道具としての司法部を作り上げた。 社会主義統一党は、一般大衆の司法への参加にも力を入れた。しかし一般市民の司法に対する関心は必ずしも高まることはなく、また彼らが積極的に参加する場合には、必ずしも党の欲する結果が出たわけでもなかった。 また、司法官や法学者の間では、繰り返し、党の政策に対する隠れた抵抗が続き、ここに東ドイツにおける法的なディシプリンの独特のあり方が見られる。特に1956年のスターリン批判に触発された自由化の傾向の中で、指導的な者も含めて、多くの法学者たちが、法の自立性を高めることにより市民の権利を強化することを主張したが、ハンガリー動乱の影響で抑圧された。さらに1960年代にはウルブリヒトの「新経済システム」構想との関連で、計画経済の客体である社会主義的企業に一定の自立性を認め、企業間の法的関係を私法的契約関係として把握しようとする試みが、本来行政機関である「国家契約裁判所」をも舞台として行われた。このような努力も、最終的にはウルブリヒトの失脚によって潰えることとなり、ホネッカー期の停滞は東ドイツの消滅を準備することになる。
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