本研究では、高分解能電子エネルギー損失分光法(EELS)を走査型透過電子顕微鏡と組み合わせ、有機結晶に対して電子線照射損傷を極力抑えてEELSスペクトルを計測する新しい手法を開発することを目的としている。 前年度には、アンダーサンプリング法による計測が有機結晶のEELS計測において有効であることを明らかにした。最終年度では、計画していたもう一つの新しい計測法であるアルーフ散乱法の実験を実施した。実験では、試料としてテトラシアノキノジメタン(TCNQ)分子の銀錯体を気相反応法で合成し、得られたナノワイヤー状の結晶に対してアルーフ散乱法を適用した。アルーフ散乱法では、極細電子プローブを試料からわずかに外し、真空領域を照射しながら非弾性散乱信号を検出するもので、試料に直接電子は照射されないため、電子線による損傷を大きく低減することが可能である。銀TCNQ錯体はワイヤー状の形状を有するため、ワイヤーの側面に平行に極細電子プローブを走査することで、スペクトル強度を効率的に計測することができた。その結果、シアノ基の振動励起が0.27eVに観察されたほか、可視光領域においても錯体特有の電荷移動ピークが観察された。このように、電子を試料に直接照射することなく、近赤外から可視光の領域までスペクトルが計測できたのは、非弾性散乱の非局在性によるものである。その距離は、損失エネルギーが低いほど長く、試料から10nm程度電子線を離しても十分にスペクトル信号を得ることができることが明らかになった。 また、昨年度、銅フタロシアニン分子から計測した、炭素K殻吸収端微細構造の第一原理バンド構造計算によるシミュレーションも実施した。その結果、有機分子の場合、内殻ホール効果が弱く、内殻ホールを0.5個分とする遷移状態近似による計算が実験とよく一致することが判明し、有機分子の解析に新たな知見を得ることができた。
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