本研究では、1930年代に最盛期を迎えたドイツにおける日本美術研究の戦後の状況について実証的に検討した。第二次大戦末期まで中心的役割を担っていたオットー・キュンメルが失脚し、人的ネットワークだけでなく美術作品や研究拠点等を失った状況はいまだ十分に検証されていない。東西ドイツの分断、日本との国交断絶、ナチ的要素の排除を経てふたたび研究環境が整うまでに、ドイツの日本美術研究者が体験した障害や議論、妥協について分析することで、戦前と現在までの状況をつなぐ日独美術交流史の大きな流れを捉えなおすことができる。 平成29年度は研究成果発表を中心とし、Tsukuba Global Science Week 2017(TGSW)における口頭発表およびAssociation for Asian Studies Annual Conference(AAS)におけるパネル発表を行った。TGSWでは、戦後のハイデルベルク大学における日本美術史研究と、1950年代初頭の西ドイツにおける日本美術展を事例としてドイツにおける日本美術研究の「零時 Stunde Null」の状況について論じた。またAASでは、1950年代半ばに日米美術交流に寄与した芸術家長谷川三郎とドイツ出身の芸術家ハンス・リヒターの交友について論じた。長谷川とリヒターの関係は日米美術交流のうちに生じたものだが、これは戦後における日独関係の断絶を象徴する事象でもある。 総じて、戦後のドイツにおける日本美術研究について、事例分析から美術分野における国際情勢との関わりを読み解き、段階的な復興と背後にある政治的・物理的事情についてさらに議論する必要性を提示した。また、ドイツ以外の地域における同時期の状況との比較分析の基盤を構築することができた。
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